人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

幻想の日ユ同祖論

2016-05-07 12:57:07 | スピリチュアル?
日本=ユダヤ(日ユ)同祖論というのを御存知でしょうか?
学研系”ムー”民だったら知らなきゃモグリですよ。…私はイロイロな理由で否定も肯定もしませんけど…
いや、そもそもそれをキッパリ否定したり、”間違いない!”とドヤ顔して肯定する必要など無いとも思っています。単純にロマンと狂気が混在してて興味は尽きないですけどね…
これは戦前から今に至るまで廃れることなく、根強く主張されていたことなのですが、これを親ユダヤよりの見地とすれば、むしろユダヤ陰謀論に代表される反ユダヤ的見地の言説の方が支持を集めているようにも思えます。どっちにしろ、日本人はユダヤが気になってしょうがないみたいですね。
昔から知られているこの論者には、佐伯好郎、小谷部全一郎、、酒井勝軍、川守田英二…などの諸氏が挙げられますが、彼らはいずれも明治から昭和にかけて出現し、クリスチャン(プロテスタント系)だった点が注目されます。
元々が熱狂的になり易い下地の上に、(佐伯博士は純粋な学者という姿勢を崩さなかったにせよ)彼らは自制下もあり、万世一系の天皇崇拝(ことに酒井氏に著しい)というも一つ違った色合いの熱狂主義が大なり、小なり結び付く傾向もありました。
そこから、ユダヤの民が待望する救世主は、日出る国に君臨する世界天皇に他ならない(酒井説)という主張などが現れたのです。
そして、彼らはその独自のメシアニズムを裏付けるため、学問的に訴える数々の考証へとまた熱狂的に駆り立てられました。
そう、彼らはその主張は多々あれど、熱狂的に考証ごとに明け暮れていた人たちだったのです。
アイヌなどの先住民=消えたユダヤ十支族説(小谷部)、渡来人の秦族=ユダヤ人説(佐伯)、日本古謡=ヘブライ起源説(川守田)等々…
ところが私は、こうした考証ごとは、交渉ごとと同じく苦手です(笑)
私はこれらの異端の原著を読んだこともありましたが、彼らが一体何を躍起になって論証してたのか、まるっきり頭に入りませんでした(笑)
仮にこれらの異端説の何かが、ついに日の目を見る事が出来た…つまり公的に権威筋を通じて実証されてしまったとしましょう。
多分、”へえ!”とは驚くかも知れませんが、”だから、それがどうしたの?”としか感じないでしょうね。
これは、この事に限らず、すべての所謂定説に対するスタンスなのかも知れません。
(逆にキッパリ否定されてしまっても同じことです)
ただ私は、日本人の血統を持つキリスト者である彼らが、信仰を受容して行くにつれて、その源泉へと探究するうち、こうした異形の鉱脈に導かれてしまった、というところに関心をひきつけてやまないものがあります。
これらの言説には元々一つだったものが、分離というプロセスを経て、やがて又ひとつになるというモチーフが根底にあります。
つまり日ユの王統の統合体たる世界天皇の君臨であれ、失われた支族の回復による世界的統合支族?の出現であれ、それは分離されたものの再結合、和合のビジョンが隠されているのです。(これはまた世界支配の陰謀論と隣り合わせのものですが…)
そこには表面的な日ユの和合性に隠れて、ユダヤとキリスト教の和合されるべき理由も示されている気がしてなりません。
それは多かれ少なかれ、彼ら日本人クリスチャンとしてその共通の源泉日本=ユダヤ的なものへの回帰しようとする意志の顕れに見て取れるのではないでしょうか?
こういう事は当然のことながら如何なる考証ごととも無関係です。霊的交渉ごと?ならともかく…
彼らには少なからず、そうしたものが精神のどこかに心象として生きていたのではないでしょうか?
しかし、彼らが考証に躍起になり、ファナチックに宣揚されたりするのに触れると、幻想に憑かれているようにしか感じられません。トンデモ…何て揶揄する気は毛頭無いですが…
私自身にもずっとある種の心象があります。
それはもとより言葉で言い表せないものですが、このようなものです。

”日本には潜在的にあらゆる宗教、精神的伝統を受け入れる霊脈がある。
でも、それは生きた霊なるハタラキを受容しなければ、眠ったままだろう…
この霊なるハタラキは選民によって独占さるべきものなのだろうか?
それは然るべき霊脈を揺り動かしてこそ、普遍性を持って生きてくるのではないないだろうか?
いいや、それは元々一つのものだった…全ての宗教は一に帰るのだ”

これは幻想かもしれません…されど心象に息づいているのです…





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする