私がこうしてブログを書いている理由の一つは、書くことで自分自身に気付くこと、学ぶことが多々あるからです。
例えば私が観照と呼んでいたものが有ります。
前にも触れたように、これは通常理解されているような、起きてくるあるがままを判断や解釈をしないで、ただ見つめる、というような自分が観照する者になるような事とは違います。
クリシュナムルティの本を何冊か読みましたが、”よーし、観よう、あるがままを…”と何事かをやろうとしますが、いつも何とも捉えどころの無い思いにさせられました。
は…あれは何かをやるって事じゃないの? で…何?…と堂々巡りするばかりでした。
自分で自分を観照しようとしても、それは鏡に映っている自分自身を見る事が出来ないように無理なのではないですか?
そしていつもクリシュナムルティには何かが足りないと感じたものです。
私がここで言う観照とは、自分の思いを超えてあるものに観られ、照らされているような感じのものです。こういう感覚というのはずっと以前から覚えていたのですが、自覚されたのは7か月ぐらい前が初めてでした。ブログを書いてなきゃ多分気が付かなかったでしょう…
自覚された時、一瞬私はコペルニクスになったかと思いました。(笑)
同時に何でこんな重大な事を身は覚えているのに気付かなかったんだ、バカめ!とアキレかえるばかりでした。
これは世間ではほとんど、認知されてないようで、慣用語が見つかりません。
でも、この事は古来から絶対知らされてきたことに違いない筈なのです。
西欧などでは、いつしか啓蒙する理性にとって代わられてしまったものだと思います(過去記事”新しい啓蒙主義”参照)
啓蒙…イルミネーション…新プラトン主義やグノーシス、スーフィーや浄土仏教でも伝えられてきたものでしょう。単純に光と呼ばれていたりします。
で、これからは、観照という言葉は紛らわしいので、どうでもいいですが、照明なんて言葉にしようかと思っています。
考えてみれば、見えざる導師、ジンジンすること、シェキナー、現臨、ハタラキ…全てつながりのあることを言っていた事に気が付きます。
これらは意識がどう向いているかで微妙に違ってくるのです。
照明と言った場合、あまり内側に浸透してくるものじゃなくて、例えばどうしようか迷っている時など、ポーンとそれに預けてしまう事で迷いの思いの間から啓かれてくるようなものです。公園のベンチなどでそうなっている時など、突然立ち上がったりします。”よし、分かった!”と…
何をどう分かったかはよく分からないですが…(笑)頭以外でも合点しているみたいです。
こんなこと言うと捉えどころが無く感じるかもわかりませんが、シッカリ捉えられているのです!
読書に夢中になっている時などもよくあります。その時は文章を筋道立てて読んだり、字句の意味を考えたりすることが困難になり、(要するに思考機能が弱まる)あたかもパノラマ式にパッ、パッと本を読むというより、見ている感じになります。(ワカル?)
こういう事ってのは常識じゃないのですか? 昔からあることなので…
どうしたらそうなるかって事は例によって分からないですが、意識的になっていることは確かなことです。
思考と意識の関係というのもこの場合は実に微妙です。
ゴチャ、ゴチャした思いは確かに弱められますが、思考のある面はむしろ明晰になってきたりします。
意識的になることによって、思考の性質も変わってくるのでしょう。
そしてより根本的には、そこには自分を超えた照明、光が差し込んでいるという事なのでしょう…
例えば私が観照と呼んでいたものが有ります。
前にも触れたように、これは通常理解されているような、起きてくるあるがままを判断や解釈をしないで、ただ見つめる、というような自分が観照する者になるような事とは違います。
クリシュナムルティの本を何冊か読みましたが、”よーし、観よう、あるがままを…”と何事かをやろうとしますが、いつも何とも捉えどころの無い思いにさせられました。
は…あれは何かをやるって事じゃないの? で…何?…と堂々巡りするばかりでした。
自分で自分を観照しようとしても、それは鏡に映っている自分自身を見る事が出来ないように無理なのではないですか?
そしていつもクリシュナムルティには何かが足りないと感じたものです。
私がここで言う観照とは、自分の思いを超えてあるものに観られ、照らされているような感じのものです。こういう感覚というのはずっと以前から覚えていたのですが、自覚されたのは7か月ぐらい前が初めてでした。ブログを書いてなきゃ多分気が付かなかったでしょう…
自覚された時、一瞬私はコペルニクスになったかと思いました。(笑)
同時に何でこんな重大な事を身は覚えているのに気付かなかったんだ、バカめ!とアキレかえるばかりでした。
これは世間ではほとんど、認知されてないようで、慣用語が見つかりません。
でも、この事は古来から絶対知らされてきたことに違いない筈なのです。
西欧などでは、いつしか啓蒙する理性にとって代わられてしまったものだと思います(過去記事”新しい啓蒙主義”参照)
啓蒙…イルミネーション…新プラトン主義やグノーシス、スーフィーや浄土仏教でも伝えられてきたものでしょう。単純に光と呼ばれていたりします。
で、これからは、観照という言葉は紛らわしいので、どうでもいいですが、照明なんて言葉にしようかと思っています。
考えてみれば、見えざる導師、ジンジンすること、シェキナー、現臨、ハタラキ…全てつながりのあることを言っていた事に気が付きます。
これらは意識がどう向いているかで微妙に違ってくるのです。
照明と言った場合、あまり内側に浸透してくるものじゃなくて、例えばどうしようか迷っている時など、ポーンとそれに預けてしまう事で迷いの思いの間から啓かれてくるようなものです。公園のベンチなどでそうなっている時など、突然立ち上がったりします。”よし、分かった!”と…
何をどう分かったかはよく分からないですが…(笑)頭以外でも合点しているみたいです。
こんなこと言うと捉えどころが無く感じるかもわかりませんが、シッカリ捉えられているのです!
読書に夢中になっている時などもよくあります。その時は文章を筋道立てて読んだり、字句の意味を考えたりすることが困難になり、(要するに思考機能が弱まる)あたかもパノラマ式にパッ、パッと本を読むというより、見ている感じになります。(ワカル?)
こういう事ってのは常識じゃないのですか? 昔からあることなので…
どうしたらそうなるかって事は例によって分からないですが、意識的になっていることは確かなことです。
思考と意識の関係というのもこの場合は実に微妙です。
ゴチャ、ゴチャした思いは確かに弱められますが、思考のある面はむしろ明晰になってきたりします。
意識的になることによって、思考の性質も変わってくるのでしょう。
そしてより根本的には、そこには自分を超えた照明、光が差し込んでいるという事なのでしょう…