スピ界を初め、精神的なものに普段関わっている中で、当たり前すぎて気付きにくいことが多々あります。
例えば、二元だとか非二元だとかという観方が有ります。
どっちが真実かなどと、論証に躍起になったりするわけですが、我々が観ている事物そのものは、二元だとも非二元だとも主張している訳ではありません。
こういう事はどこまでも我々がそう観ている、あるいは観たがっているに過ぎないのであって、事物そのものはそうなっているか、どうかなど分かっちゃいないのです!
この我々が観ている事物は、物質で出来ている…肉体もそう出来ている、と当たり前のように思い込んでいますが、科学者などがそういう客観的事実らしきことを決まり事のように言っているから、それに倣っているだけです。
そして、この物質と精神とは別の次元のもので、物質は固形的、精神は流動的なものとこれまたそう信じられています。
世に唯物論とか物質主義と言われている考え方が有りますが、これは間違いなく精神の産物なのです! これに対するとされる観念論を初め、自由主義、社会主義、数多の宗教思想…全てがそうです。
又、誰が決めたのか物質は、もっとも低次の段階であり、だんだん微細になってくるにつれて高次になると言う…神の次元が究極らしいです。
人間存在もまた肉体以外に、アストラル体、エーテル体、コーザル体…といった見えない何らかのボディで構成されているという思潮もあるらしい…
これは多く修行体系…より高き次元への進歩に対応して考えられています。
OO体、と言ったら肉体の延長のようにイメージされてしまうが…というかそうした説明には図や表が不可欠のようです。神の次元まで図表で示されると、天国は幾何学図形で出来ているのかと思えてきます。
エホバの神、アラーの神、低級、あるいは高級な諸々の霊…それらを語る人は、それらを実体あるものの如く語ります。
(私も思われていた自己に対し、自己の本体らしきことを語ったりしますが、勿論その実体は見たことありません)
でも、それら実体あるもの如く表せられるものは、どこまでも見えるもの、捉えられるものの延長でしょう。
非二元論とかノンデュアリティという観方というのは、こうした思い込まれた、固定された観方に風穴をもたらすものであるのは確かな事だと思います。分離思考などと言いますが、分離とか、固定したモノというのは、このように精神の産物と言えます。このネーミング自体は、そう観ている、あるいは観たがっている人の都合に過ぎないですが…
しかし、それも「私はいない」、「全てはストーリー」といったお決まりのフレーズ、究極の”これしかない”真理などと主張されるや、また一つ精神の産物に過ぎない固まった主義が生まれるに至ります。
こうしたことはどうして起こってくるのか?…心とか精神というものは、元々目に見えないし、掴めないものです。
だからこそ、目に見える形や、岩のように動かないものに借りようとするからでしょう。
真理を確たるものにしないとならない…これこそは捉われの初めです。
そうやって何か生命あるものをずっと手中に置いておこうとするのでしょう。
皮肉にもそこから生きたものは蒸発し始めるか、風と共に去って行くばかりです。
偶像崇拝というものの本質もこうした点にあります。それに陥ると異教の神に誑かされる訳じゃない、生きた精神が枯渇するのです。
こうしたことの根本的事由は、生きたハタラキを感受出来なくなった、という事に尽きるでしょう。
全ての原理主義には生きた精神など見出されません。
こう見ると、凝り固まった事物が有る訳でなく、凝り固まった精神ばかりが有る、と言ってもいいでしょう。
物質的なものは成程固定した、それ自体生きていないように思えます、しかし、私はそれが媒体となってあのハタラキを感受したことが幾度となくあります。その時、自らもその媒体になっているのを覚えます。
又、自分が生き返ったように感じられて来ます。そして…
おおっ…死んで動かないような周りのものも生き返ったように感じられてくるではないか!…
例えば、二元だとか非二元だとかという観方が有ります。
どっちが真実かなどと、論証に躍起になったりするわけですが、我々が観ている事物そのものは、二元だとも非二元だとも主張している訳ではありません。
こういう事はどこまでも我々がそう観ている、あるいは観たがっているに過ぎないのであって、事物そのものはそうなっているか、どうかなど分かっちゃいないのです!
この我々が観ている事物は、物質で出来ている…肉体もそう出来ている、と当たり前のように思い込んでいますが、科学者などがそういう客観的事実らしきことを決まり事のように言っているから、それに倣っているだけです。
そして、この物質と精神とは別の次元のもので、物質は固形的、精神は流動的なものとこれまたそう信じられています。
世に唯物論とか物質主義と言われている考え方が有りますが、これは間違いなく精神の産物なのです! これに対するとされる観念論を初め、自由主義、社会主義、数多の宗教思想…全てがそうです。
又、誰が決めたのか物質は、もっとも低次の段階であり、だんだん微細になってくるにつれて高次になると言う…神の次元が究極らしいです。
人間存在もまた肉体以外に、アストラル体、エーテル体、コーザル体…といった見えない何らかのボディで構成されているという思潮もあるらしい…
これは多く修行体系…より高き次元への進歩に対応して考えられています。
OO体、と言ったら肉体の延長のようにイメージされてしまうが…というかそうした説明には図や表が不可欠のようです。神の次元まで図表で示されると、天国は幾何学図形で出来ているのかと思えてきます。
エホバの神、アラーの神、低級、あるいは高級な諸々の霊…それらを語る人は、それらを実体あるものの如く語ります。
(私も思われていた自己に対し、自己の本体らしきことを語ったりしますが、勿論その実体は見たことありません)
でも、それら実体あるもの如く表せられるものは、どこまでも見えるもの、捉えられるものの延長でしょう。
非二元論とかノンデュアリティという観方というのは、こうした思い込まれた、固定された観方に風穴をもたらすものであるのは確かな事だと思います。分離思考などと言いますが、分離とか、固定したモノというのは、このように精神の産物と言えます。このネーミング自体は、そう観ている、あるいは観たがっている人の都合に過ぎないですが…
しかし、それも「私はいない」、「全てはストーリー」といったお決まりのフレーズ、究極の”これしかない”真理などと主張されるや、また一つ精神の産物に過ぎない固まった主義が生まれるに至ります。
こうしたことはどうして起こってくるのか?…心とか精神というものは、元々目に見えないし、掴めないものです。
だからこそ、目に見える形や、岩のように動かないものに借りようとするからでしょう。
真理を確たるものにしないとならない…これこそは捉われの初めです。
そうやって何か生命あるものをずっと手中に置いておこうとするのでしょう。
皮肉にもそこから生きたものは蒸発し始めるか、風と共に去って行くばかりです。
偶像崇拝というものの本質もこうした点にあります。それに陥ると異教の神に誑かされる訳じゃない、生きた精神が枯渇するのです。
こうしたことの根本的事由は、生きたハタラキを感受出来なくなった、という事に尽きるでしょう。
全ての原理主義には生きた精神など見出されません。
こう見ると、凝り固まった事物が有る訳でなく、凝り固まった精神ばかりが有る、と言ってもいいでしょう。
物質的なものは成程固定した、それ自体生きていないように思えます、しかし、私はそれが媒体となってあのハタラキを感受したことが幾度となくあります。その時、自らもその媒体になっているのを覚えます。
又、自分が生き返ったように感じられて来ます。そして…
おおっ…死んで動かないような周りのものも生き返ったように感じられてくるではないか!…