人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

初めの愛と幸福

2016-05-17 16:07:46 | スピリチュアル
成功、物質的な豊、自分の嫌な性格や人間関係の改善、…
これらはいずれも幸福な生き方というものと直結していると言えます。
人間は精神的な欠陥でもない限り、幸福でありたいと思って生きているものです。
それ自体悪かろうはずはないです。
でも、いくらそれらを求め続けていても、なかなか思うようにいかない現実の壁にぶつかったりなどして、かえって不満を抱えて幸福ならざる生き方になってしまったりします。
又、せっかく前記のような境遇に恵まれて、一時幸福感に預かれても、何時しかそれらは風と共に去って行ってしまう事も有ります。
御利益宗教や成功実現セミナーなどの教師などの多くは、”神の恩恵を受けたのなら、現象的な富や成功となって表れなきゃあオカシイ…”などと言う人も居ます。
その周辺にはいつも明るく、楽しく、そして正しくあるべき成功、富、幸福の浮かれ話が取り巻いています。
何か常にそういう環境が持続してなきゃならないみたいです。
どっかそういう環境は作り出されているようなところが見受けられるのです。
そういうところでは、色々な面で強迫観念に苛まれるものです。幸福であらねばならないのか…と。
しかし、どうしても”あの歓喜、幸福感はどうして去ってしまったんだろう、どうやったら取り戻せるのだろう…”という事を考える向きも出てくるでしょう。
又、その中には”神に祈っている時、歓喜に包まれたけど、どうして現象として表われてこないんだろう…祈り足りないんだろうか、もっと強めねばならないんだろうか…”と感じている者も居るかもわかりません。
こういうこと自体、その問題が那辺に有るのかを言い表しています。
彼らは幸福になるべき成功、富、性格改善等を求めているのです。幸福になることこそが目的なのです。
神は二の次であるかのようです。ここからズレが始まります。
いいや、もっと言えば神信仰、神の教えへの帰依、神秘体験や悟りの追及…
これらさえ、神的なのもの、そのものとの有り様からしばしばズレてしまうものです。
間に固定観念とか信念などが介在することでそうなります。
ズレてしまうという事は、常に変質する可能性が有る、という事です。
信仰も修行も諸々の体験もどこかで神抜きのものにもなり兼ねないのです。
これは、例えば悟りというものが、自分が一生懸命信仰、修行に励むことにより達成し、獲得するものだ、と錯覚するなど有限的な自己への捉われから来るようです。
そこから、”初めの愛”を忘れ、そもそもの源泉から離れた本末転倒した様相に転じてしまうのです。
同じように、有限的自己を起点にして得られた如何なる幸福も又有限なものとならざるを得ません。
”初めの愛”…恩寵…そこで有限的自己は無化(少なくともその契機には)されることが知られるでしょう。
そして、そこには喜ばしきおとずれが…それが幸福の源です。
これが無い、というのはどっかがオカシイ…現象的な表れというのは有っても無くても…特別な体験が有っても無くても…
幸福は神と共にあるからです。単純に”神様が好きだ¡”という人には言葉は要りません。
本源的幸福は獲得したり、それを持続したりする必要が無いものです。
この世の愛、幸福にあなたは裏切られるでしょう。しかし、神、初めの愛は決して裏切ることが有りません。
だから…もう裏切らないで!…





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