人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

心の羅針盤

2016-05-20 00:04:41 | ガイダンス
”熊本地震は人工地震だった”という流言がネットで飛び交っています。
ただでさえ、おおよそ常識も良識も感じさせない妄言だとしか思わないですが、これを世界平和を祈っていると言う御仁が、それを信じ込んでタレ流しているというのだからアキレる他ありません!
自分で妄言を拡散しておいて、すべてを消えて行く姿にして、神にお任せしましょう…というのは一体、どういう神経なのでしょうか?
この人は、こんな批判など”消えて行く姿”にするのでしょうが、自分のカルト、オカルト思考は何時までも消えて行かず、もうあっちへ脱線、こっちへ脱線…おバカな事をずっと繰り返しているのです!…これも、こうしたオカルト好みの言い方で言えば、前世の因縁という事なのでしょう…多分、コワイ目に遭ったことが無いのか、免疫が無いのでしょう。
世界平和がどうこうという以前に、自分の迷妄を何とかする方が先決です。世界平和の一歩というのはそういう事でしょう。
ああ…この方の天命が全うされますように…

私の精神的探究の中で唯一といっていい、失敗した例は邪教的集団に近づいてしまったことでした。
これは、知人がその集団にハマりかけ、何かの論争の時、この知人の”邪教かどうか実際に行って確かめるべきだ…”みたいな挑発的な言葉にうかつに乗った私自身の思慮不足と勝気?が招いたものなのでした。
又、予言だとか霊がかりといった、オカルト的な事に興味を抱いていて、どこかにそうしたものを引き付けてしまう部分もあったように思います。
以前から私には、見えない導きらしきことを覚えていたのですが、それは声なき声というか内なる促しというか、微妙な感じで訪れるものなのですが、その集団の教会に足を踏み入れた時ばかりは違っていました。何か背筋の辺りにゾクゾクと悪寒が走ったかと思うと、”一刻も早くここを立ち去れ!”というような強い調子で駆り立ててくるものを感じたものです。
この事を通して、興味本位にオカルトに接近することの愚かさ、恐ろしさを身に染みて思い知らされました。(こうした予言、霊がかり、超能力などオカルト、カルト思考から抜け出したいという人には、「日月神示」を丹念に素直な心で読まれることをオススメします。ただ頭の中のそうした固定観念は脇に置く必要が有りますが。でないと逆効果かも…)
そしてすぐ、あの意識が飛んで行ってしまうような、精神的に不安定な状態に見舞われたのです。
これまで、精神的に”これはキケン…”と感じたのはこの時だけだったと思います。
私はただ、もう祈るしかありません。それからです…あの見えない導きが顕著に感じられるようになったのは…
そして、その事を契機に何か私に心の羅針盤のようなものが与えられたのです。
それは内側からは、先述の促し、外側からは、あのすべてを見通す照明、という風に感じられるものでした。(後者は既述のように自覚したのは最近のことですが…)
頭の中でゴチャ、ゴチャ思いが去来してたり、捉われていても中々判断が出来ないものですが、いつの間にか内からも外からもこの羅針盤に照らされるようになったのです。といってもそれは、目で見て分かる何かの判断基準みたいなものが有る訳でも無く、見えない導きから醸し出される愛、喜びと共にあるものが道標になっていたのです。(気が巡っていたのかどうか分かりませんが、身体的に暖かみも覚えていました。)
そうでないものは、たとえ真実らしきことが頭で判断されるような事が有っても反応しない(暖かみが感じられない)のです。(東大生だって邪教にハマるおバカも居ますからね…)
何が真実で何が正しいか…という事を判断する際には、得てして自分自身の固定観念に捉われがちになったりして、偏った判断をしてしまったりするものです。
私はいつの間にかこの羅針盤に委ねるように導かれるようになりました。
その全てが正しいことかどうかは分からないですが…でも初めの愛を忘れ、離れることは絶対的に間違いです!
初めの愛に立ち返ることが迷妄から覚める事ではないでしょうか?…










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする