人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全託

2016-05-01 15:23:31 | 求道、探究
私はしばしば全託何て事言ったりしますが、ホントは軽々しく言えるようなものでは有りません。
”よし、これから全託しよう…”などと勘違いする人も居るかも知れませんが、やって出来る人など誰も居ないのです!
ですからそれは簡単なことだ、とか難しいこととかいった表現も当てはまりません。
宗教やスピ界では、これを実に安易に捉えている向きも多いですね。
この種の人たちは、何らかの教えとか修行システムに固執している人が多いものですが、よく考えてみてください。
そういう人たちが全てを手放すことに意識が向かうと思いますか?
精々、ある先生が全託の道を説いているから、それに倣って、それを信じて全託でもしましょうか…といった赴きなんじゃないですか?
観念的にはそういう事も考えるだろうけど、内心はちっともそっちへはいきません。
無上の教えなリ、修行の方が大事なんですからね…手放す気なんぞさらさら無いでしょう。
これはもう欺瞞以外のなにものでも無いです。冒涜です!
手放す気など無い人は、そういう事に赴くこと自体が間違ってます。
やらない方が身のタメです!周囲の人のタメです!…あ…やろうとしても出来ないんだった…
何て言ったらいいんだろ…と、とにかく忘れて下さい!
S会という神への全託から霊的修練に入ることを標榜している団体で、カリスマと観られていた人物が居ました。
自身も体験談をしていましたが、その修練を通じて何らかの覚醒を経験しているのは間違いないと思います。
ただ、私にはどうも何かがオカシク感じられて仕方が有りません。
”この人は何で又、うわ言のようにB師(S会の創始者のインドネシア人)に従いなさい…とかB師、S会を奉ることばかり言うんだろう…”
私にはどうにもその人がS会、B師にまつわる観念から自由じゃないんだ、と感じてならなかったのですが、自分自身がそうだったら別にどうでもいいのですが、周囲にそうした信仰?を流布し出すのです。
又、従順な周りの人たちを見えない何かでコントロールしようとしていたのも気になりました。
(この従わせたり、従ってしまったりする構図にはホントに嫌悪感を覚えます!)
この会は宗教では無い、所謂指導者的存在も居ないというフレコミだったハズなのですが、こうした例に限らず狂信者のように見える人、やたら指導したがる人も結構見受けられました。
そこでは全託という言葉はしばしば聞かれましたが、さあ、果たしてその内実はどこまで浸透していたかは全く定かではありません。
”パーッと修練して、ビールでも飲むか…”という声も聞いた気がしました(笑)
”別にそんな全託などと御大層な事言わんでもいいだろ…”とも思いましたが、霊的な道(修練では人智を超えたある力を受ける)を甘く見ているようにも感じました。そしてある固執された観念を霊的修練に持ちこむ傾向もあったのではないかと拝察されます。
だから中途半端な全託というのは危険なのです。関わらないほうがマシです!
偏った、クサイ人間になるだけです。
このように言うと、欲望やマインド、とくに固執した観念を捨てなければならないのか?…と、これまた出来そうにないことを考える向きも有るかも知れませんが、それらが実際に捨て去られる、無くなるかどうかは知りません。
ただ、かの上よりの力が臨んだ時、(実にこの瞬間のことを言っているんです!)手放させようとするハタラキに手放す気が有るのか、無いのか…そこんとこだけでしょう…
これは本当に生きた現実に関わることなので”こういうものだ!”と決めつけたことは言えないので、そういう事しか言えません。
ハッキリ言いたいのは、全託の道は、いつまでも特定の教えとかメソッドに御執心の御仁が踏み込む道じゃない、ということです。
どうしても、こうしても踏み込んじゃう人には、あなたの見えない導師が上手くやってくれることを祈るばかりです…。


コメント
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