一部のスピ系の間では、通称「カタカムナのウタヒ」と呼ばれる謎の古文献の存在が隠然たる影響を放っていることが知られています。
私にはずっと頭のどっかにこの文献の存在がチラついているのか、もしかしたらそれがこのブログを書かせているのか?などとも近頃感じております。
この文献自体の信憑性については、発見者とされる楢崎皐月師によるノートへの写し書きしか存在せず、その発見に至る経緯が、かなり神秘めかした話(中国の謎の道士の言い伝え、その伝承の由来となる神戸、金鳥山頂に居たという仙人みたいな存在など)に彩られていることも有り、疑わしい点も多々あります。
だが、このブログを読まれている方ならお分かりのように、私には客観的信憑性など二の次なのです。
(第一、数万年前のオリジナルな資料など存在していること自体が非現実的な話ではありませんか!)
一義的な問題とは、そこに何が書かれているのか、何を伝えようとしているのか…それに尽きるのです!
楢崎師の弟子、宇野多美恵女史が十数巻もの「相似象」誌(相似象学会刊)を出されていますが、一般書店では扱ってません。
私は未読ですが、関川一郎著「カタカムナへの道―潜象物理入門」(Eco・クリエイティブ刊)という本は前記のものをまとめた内容らしいです。
それにしても、この幾何学的な文字…それは神代文字か宇宙文字か、何かの秘教の暗号文字か分からないが、”アマ、カム、ヤタノカカミ、トコタチ…”楢崎師は一体どうやってその意味を解読出来たのか、知る由も無いですが、潜象、相似象、アマ始元量、互換重合性…この意味合い自体が実に理学的でわかりづらいものですが、私の心象にはこれらが息づいています。
概念としての理解を進めるよりも、心象にフト何か感じて、そこで味わってみることが重要じゃないかと思います。
楢崎師、宇野女史ともに物理科学に深く通じた方なので、その理解の仕方、説明にはそうしたものがかなり反映されていますが、上古代人には物理とか哲学などの概念など無かったのは言うまでもないことでしょう。
彼らには、潜象、現象などを二元と観ずに統合された一つのものとして理解出来る感性を有していた…そういう意識の有り様というものを抜きにしては、こうした哲理は本当には我々現代人には伝わってこないでしょう。
だからこそ、宇野女史はその伝えているヒビキを感受すること、感受性を養う事を幾度も強調しているのです。
フラクタル構造…葡萄状に相即する相似形…
時間と空間は一つのマ(間)である…
個的なものと普遍的なもの、超越性と内在性など相反するものの矛盾の無い重合、調和…
私はこうした「カタカムナ」に通底したものを目の当たりにした事が有ります。
目の当たりにするとは、分かる自分、見ている自分とその分かる対象、見る対象が無くなることです。
何かについて…では無い!、まんまだ、ということです!
何を実感しているのかよく分からないが、”そうなんだ!”という理屈でない実感が有ります。
それが無ければいくら理屈を並べたってしょうがありません!
もとより到底ここで言い表すことは出来ませんが、アマ、カム…この見える世界をそうあらしめている元なるハタラキといったものが言葉を超えて伝わってくるようです。
ただ、私にはこの文献資料に触れていて物足りないと感じていることが有ります。
それは、前述したように理学的な表現、アプローチに傾いているためか、愛というものが伝わってこない、という点です。
愛とハタラキというものは一つのもののはずです。
アマやカムという始元的ハタラキに引き付けられるという事は愛がハタラくからでありましょう。
この合性自体もハタラキという事でもあるのですが、善きにつけ、悪しきにつけ知恵が発達してしまった、人間元なるものに引き合わさせられるものは、理というものより愛を実感することではないでしょうか?
いずれにせよ、科学偏重の現実世界も行き詰まりの様相を見せ、同時にこれまで隠れていた事象が顕わになって、見えるものと見えないもの、古のものと新しいもの、本と末とが一つにされてくるのを身に覚えます。
私にはずっと頭のどっかにこの文献の存在がチラついているのか、もしかしたらそれがこのブログを書かせているのか?などとも近頃感じております。
この文献自体の信憑性については、発見者とされる楢崎皐月師によるノートへの写し書きしか存在せず、その発見に至る経緯が、かなり神秘めかした話(中国の謎の道士の言い伝え、その伝承の由来となる神戸、金鳥山頂に居たという仙人みたいな存在など)に彩られていることも有り、疑わしい点も多々あります。
だが、このブログを読まれている方ならお分かりのように、私には客観的信憑性など二の次なのです。
(第一、数万年前のオリジナルな資料など存在していること自体が非現実的な話ではありませんか!)
一義的な問題とは、そこに何が書かれているのか、何を伝えようとしているのか…それに尽きるのです!
楢崎師の弟子、宇野多美恵女史が十数巻もの「相似象」誌(相似象学会刊)を出されていますが、一般書店では扱ってません。
私は未読ですが、関川一郎著「カタカムナへの道―潜象物理入門」(Eco・クリエイティブ刊)という本は前記のものをまとめた内容らしいです。
それにしても、この幾何学的な文字…それは神代文字か宇宙文字か、何かの秘教の暗号文字か分からないが、”アマ、カム、ヤタノカカミ、トコタチ…”楢崎師は一体どうやってその意味を解読出来たのか、知る由も無いですが、潜象、相似象、アマ始元量、互換重合性…この意味合い自体が実に理学的でわかりづらいものですが、私の心象にはこれらが息づいています。
概念としての理解を進めるよりも、心象にフト何か感じて、そこで味わってみることが重要じゃないかと思います。
楢崎師、宇野女史ともに物理科学に深く通じた方なので、その理解の仕方、説明にはそうしたものがかなり反映されていますが、上古代人には物理とか哲学などの概念など無かったのは言うまでもないことでしょう。
彼らには、潜象、現象などを二元と観ずに統合された一つのものとして理解出来る感性を有していた…そういう意識の有り様というものを抜きにしては、こうした哲理は本当には我々現代人には伝わってこないでしょう。
だからこそ、宇野女史はその伝えているヒビキを感受すること、感受性を養う事を幾度も強調しているのです。
フラクタル構造…葡萄状に相即する相似形…
時間と空間は一つのマ(間)である…
個的なものと普遍的なもの、超越性と内在性など相反するものの矛盾の無い重合、調和…
私はこうした「カタカムナ」に通底したものを目の当たりにした事が有ります。
目の当たりにするとは、分かる自分、見ている自分とその分かる対象、見る対象が無くなることです。
何かについて…では無い!、まんまだ、ということです!
何を実感しているのかよく分からないが、”そうなんだ!”という理屈でない実感が有ります。
それが無ければいくら理屈を並べたってしょうがありません!
もとより到底ここで言い表すことは出来ませんが、アマ、カム…この見える世界をそうあらしめている元なるハタラキといったものが言葉を超えて伝わってくるようです。
ただ、私にはこの文献資料に触れていて物足りないと感じていることが有ります。
それは、前述したように理学的な表現、アプローチに傾いているためか、愛というものが伝わってこない、という点です。
愛とハタラキというものは一つのもののはずです。
アマやカムという始元的ハタラキに引き付けられるという事は愛がハタラくからでありましょう。
この合性自体もハタラキという事でもあるのですが、善きにつけ、悪しきにつけ知恵が発達してしまった、人間元なるものに引き合わさせられるものは、理というものより愛を実感することではないでしょうか?
いずれにせよ、科学偏重の現実世界も行き詰まりの様相を見せ、同時にこれまで隠れていた事象が顕わになって、見えるものと見えないもの、古のものと新しいもの、本と末とが一つにされてくるのを身に覚えます。