真理というものは、千古の昔から変わらないもの、時代の変遷とともに変わるものとがあります。
どんな聖者といえど、時代の制約というものは受けるものです。
白光の五井昌久先生にもそうした時代相というものを感じる面、古さを感じない面ともども在るように思います。
私が(白光の)とわざわざ付しているのも、そういう事を言い表しているのです。
例えば、五井先生は相対的な一宗教の教祖だったのか…それとも…
こういう事というのは、ひとえに後代の道の縁の者たちの受容、理解の在り方次第といえると思います。
私が個人的に知っている五井先生の信奉者というのは、言っては何ですけど、ずーっと旧態依然の在り方のままだし、それどころか全く五井先生とは縁も所縁も無さそうな、陰謀論とか様々な現実と遊離したオカルト的言説にカブれていて、ひたすら脱線路線を歩んでいる始末…それでいて、五井先生の道を一筋に歩んでいるつもりのようで、私には一体どこに導かれていくのかテンデに分かりません。
それは全くもって本人の自由なので、私がとやかく言う義理も無いのですが、時折余計な事言うのは、ハミ出しながらも五井先生に恩義を感じている者の一人として、先生の存在をサゲてばかりいるような言辞をしているのに我慢ならないものを感じているからです。(ここで私が脱線云々と言っているのは、五井先生の教説に対して、という事では無く、本心というもの”ここに在る”所から、という意味合いです)
そんな中、どっかに五井先生の道に新風を吹き込むような在り方は無いものか、とネットを探っていたら、こういう言葉を見つけました。
”五井先生の消えてゆく姿の教えは、聖霊に、神に委ね切ることの準備なのです”と言う意味のものなのでした。
このブロガーは現在、「奇跡のコース」(私は関連の本を少し読んだくらいで詳しいことは知りません)を中心に学ばれているようですが、五井先生の道がバックボーンに有るようなのです。その言葉から五井先生の道からこの新しい道へとごく自然に受容されている様子が伺われました。
この方に限らず、この二つの道の受容の在り方というのが又結構存在しているようです。何となーく分かる気もしますが…
果たして「奇跡のコース」の発信源がイエス・キリストなのか、どうかは知る由も無いですが、先の言葉に接して私は、思わず身が頷かざるを得ないものが有りました。
私はずっと「消えて行く姿で世界平和の祈り」に邁進して来た訳でないので、とても偉そうなことは言えませんが、思い(マインド)が消えて行くという事は、自分の何かの努力、行とかで消えて行くもんじゃないですね。
自分がという線が抜けないと、どっかで消えて行く…で無しに”消していく”になりがちです。
祈ることで個人も世界も調和がもたらされるという…しかし、それは自分の祈りの力でそうなる訳じゃないです。
あまり、自分の世界の不調和を何とかしなければ…とか自分の祈りで…という思いがもたげてくると、いつの間にか祈りというものが、一種の念的なものに変質してしまうものです。
思いは神的なもの(現臨、聖霊、守護の心霊…)と共にある時、消えるのです! それは、思いを超えたものが臨在するという事です。
それをこちらの方から言えば、思いを常に神の方に向ける事、すると神的なもので意識が満たされてきます。そして然るべき契機に全託の道が開かれます。
これを五井先生は、うまずたゆまず祈り続ける、という事で示したのでしょう。
五井先生は祈っていれば、いつの間にか悟る、というか本心が開ける、と何度も述べていますが、具体的にどんな風に、どうなってそうなるか…という事についてはほとんど言及されていません。
あたかも、”そういう事は然るべき人に任せているのです”と言いたげにも感じますが、そこに先生の役目が那辺にあったか、という事や時代相の違いといったものが観取されてくるようです。
もし現代に五井先生が生きておられたら、どういう教説をされるでしょうか?…同じように世界平和の祈りを提唱するでしょうか?…それとも印とかマンダラとかを降ろすでしょうか?…元より想像するしかない訳ですが、私は一教団の教祖として君臨することは無いだろう…と思っています。
おそらく、先生在世時よりも一段と人々に目覚めの契機が訪れやすくなった、今日の時代相に即した説き方をすると思います。
そしてこの時代は、一宗教、教団に閉じこもるような在り方は、如何にも時代遅れに我々の精神に映るのではありませんか?
こうした時代相の中にあって、時代相応に、又変わらぬ不変、普遍的な真理をくみ取ってこそ、先師の道は生きたものとなるでしょう…。
どんな聖者といえど、時代の制約というものは受けるものです。
白光の五井昌久先生にもそうした時代相というものを感じる面、古さを感じない面ともども在るように思います。
私が(白光の)とわざわざ付しているのも、そういう事を言い表しているのです。
例えば、五井先生は相対的な一宗教の教祖だったのか…それとも…
こういう事というのは、ひとえに後代の道の縁の者たちの受容、理解の在り方次第といえると思います。
私が個人的に知っている五井先生の信奉者というのは、言っては何ですけど、ずーっと旧態依然の在り方のままだし、それどころか全く五井先生とは縁も所縁も無さそうな、陰謀論とか様々な現実と遊離したオカルト的言説にカブれていて、ひたすら脱線路線を歩んでいる始末…それでいて、五井先生の道を一筋に歩んでいるつもりのようで、私には一体どこに導かれていくのかテンデに分かりません。
それは全くもって本人の自由なので、私がとやかく言う義理も無いのですが、時折余計な事言うのは、ハミ出しながらも五井先生に恩義を感じている者の一人として、先生の存在をサゲてばかりいるような言辞をしているのに我慢ならないものを感じているからです。(ここで私が脱線云々と言っているのは、五井先生の教説に対して、という事では無く、本心というもの”ここに在る”所から、という意味合いです)
そんな中、どっかに五井先生の道に新風を吹き込むような在り方は無いものか、とネットを探っていたら、こういう言葉を見つけました。
”五井先生の消えてゆく姿の教えは、聖霊に、神に委ね切ることの準備なのです”と言う意味のものなのでした。
このブロガーは現在、「奇跡のコース」(私は関連の本を少し読んだくらいで詳しいことは知りません)を中心に学ばれているようですが、五井先生の道がバックボーンに有るようなのです。その言葉から五井先生の道からこの新しい道へとごく自然に受容されている様子が伺われました。
この方に限らず、この二つの道の受容の在り方というのが又結構存在しているようです。何となーく分かる気もしますが…
果たして「奇跡のコース」の発信源がイエス・キリストなのか、どうかは知る由も無いですが、先の言葉に接して私は、思わず身が頷かざるを得ないものが有りました。
私はずっと「消えて行く姿で世界平和の祈り」に邁進して来た訳でないので、とても偉そうなことは言えませんが、思い(マインド)が消えて行くという事は、自分の何かの努力、行とかで消えて行くもんじゃないですね。
自分がという線が抜けないと、どっかで消えて行く…で無しに”消していく”になりがちです。
祈ることで個人も世界も調和がもたらされるという…しかし、それは自分の祈りの力でそうなる訳じゃないです。
あまり、自分の世界の不調和を何とかしなければ…とか自分の祈りで…という思いがもたげてくると、いつの間にか祈りというものが、一種の念的なものに変質してしまうものです。
思いは神的なもの(現臨、聖霊、守護の心霊…)と共にある時、消えるのです! それは、思いを超えたものが臨在するという事です。
それをこちらの方から言えば、思いを常に神の方に向ける事、すると神的なもので意識が満たされてきます。そして然るべき契機に全託の道が開かれます。
これを五井先生は、うまずたゆまず祈り続ける、という事で示したのでしょう。
五井先生は祈っていれば、いつの間にか悟る、というか本心が開ける、と何度も述べていますが、具体的にどんな風に、どうなってそうなるか…という事についてはほとんど言及されていません。
あたかも、”そういう事は然るべき人に任せているのです”と言いたげにも感じますが、そこに先生の役目が那辺にあったか、という事や時代相の違いといったものが観取されてくるようです。
もし現代に五井先生が生きておられたら、どういう教説をされるでしょうか?…同じように世界平和の祈りを提唱するでしょうか?…それとも印とかマンダラとかを降ろすでしょうか?…元より想像するしかない訳ですが、私は一教団の教祖として君臨することは無いだろう…と思っています。
おそらく、先生在世時よりも一段と人々に目覚めの契機が訪れやすくなった、今日の時代相に即した説き方をすると思います。
そしてこの時代は、一宗教、教団に閉じこもるような在り方は、如何にも時代遅れに我々の精神に映るのではありませんか?
こうした時代相の中にあって、時代相応に、又変わらぬ不変、普遍的な真理をくみ取ってこそ、先師の道は生きたものとなるでしょう…。