巷で瞑想と呼ばれているものには、何らかのやり方、技法というものが付き物のようですね。
昨年の今頃、いくつかの脱スピブログでやり玉に挙がっていたのは、ある種のマントラ瞑想でしたが(実に懐かしい話ですねえ…)、マントラをお金出して買うなんてことは論外として、これら技法の中で私に合いそうなのは祈りというものを想起させる、こういうものしかありません。今のところ…
瞑想で今花盛りなのは、イメージ瞑想と思われますが、私にはこれは全く不向きです。
瞑想中、イメージが浮かび上がってくるのは自然な事として、何故その発露が、よそから与えられるイメージで覆われなければならないのか? 何故そのイメージを思念で追いかけなけりゃならないのか?…私には全く理解出来ません!…何か暗示とか催眠のようなものにしか私には感じられないのです。
私が関わってきた瞑想というのは、あくまでこれらの瞑想の主流からはハミ出した”瞑想モドキ”のことです。それは祈りというものと分けられない、という事を何度か言っていますが、この意味でもモドキのものです。
特別なやり方が無い、技法に頼らない、ああしよう、こうしよう、という人為的な意念に頼らず、無為に任せるものという事が出来ます。
既存のもので、私が馴染んだものとして、知る人ぞ知る”元波動瞑想”と呼ばれるもの、クエーカーの”沈黙の祈り”がそれに通じると思われます。それは又、私が知る以前から無勝手流?で馴染んできたものです。
このうち、クエーカーの礼拝会で私は、現臨に捉えられた事が幾度か有りましたが、こう言ったからといって、”それは現臨が降りてくる秘法なのか?”と思われても困ります。
(以前、礼拝会で私が涙を流して、それこそクエーカー~震える人~のようになってしまった時、これをクエーカー入信の表明のように受け取られたのか、古い会員さんから「どう、決心なさった?」と問われ、困ってしまった事が有ります。私は特定の宗教の神サマに落ちてしまったことは一度もありません。見た目にはともかく…)
果たしてそういうものが降りてくるのかどうかは分からないです。
ただ無為に何にもしないで、坐り続けていても…多分、退屈な時間が過ぎ去っていくだけなんじゃないでしょうか…
皆が皆現臨(キリスト教的には聖霊)に捉えられたら、多分大変な事になるでしょう。
そこで何もしない、という事の意味合いですが、それは人為的な事はしない、意念にハタラキかけない、ということです。
それは取りも直さず、上よりの力の通り道を開けておくことです。
といってもいきなり人為的な事はしない、と言っても、取り付くシマも無いですね。
そこで、こっちとあっちとのエレベーター的な役目のようなものとして、祈り的なものが有るのです。
取っ掛かりは人為的なものであっても、祈るという事は、自分の力を超えたものに意識が向けられるものです。
何をどう祈るとか、声を出して祈るか、どうかというよりも、なるべく自然と湧き出てくるものに任せたらいいと思います。
私は、クエーカーのような瞑想に近い祈りばかりでなく、普通の教会でやるような手を合わせ、声を出して祈るような場でも、現臨に捉えられてしまったことも有るのですが、まさその経験を言っているのです。最初は何だかわざとらしい、と感じていたものですが、いつの間にか上から加持を受けたような感じになって、無心な状態に移行してしまったのです。
ここに表側と裏側の妙が有る…(十字架の聖ヨハネなどのキリスト教神秘主義で、能動的祈りから受動的祈りへの移行とか言っているのは、多分こうしたことと関連しているのでしょう)
瞑想のようなものであっても、祈りの心持というものとは切り離すことが出来ません。
”意識がパッと向いちゃって、アララ~…”と言ったって、その基調あってのものであるのは言うまでもありません。
初めは形らしきものが有っても、いつの間にか無為な、自由な感じになってくる…
祈りということは、上よりの力に自由にハタラいて頂く、ということに通じますが、…それには又我々も自由であるべきです。
ベルジャーエフが「聖霊は自由な精神に働く、それは神への自由な応答による」と述べているように、聖霊を受けるという事は神的なものと人間的なものの自由な交流と言えるでしょう。
だから、私は瞑想だとかある形を連想させるものでなく、瞑想モドキと言いたいのです…。
昨年の今頃、いくつかの脱スピブログでやり玉に挙がっていたのは、ある種のマントラ瞑想でしたが(実に懐かしい話ですねえ…)、マントラをお金出して買うなんてことは論外として、これら技法の中で私に合いそうなのは祈りというものを想起させる、こういうものしかありません。今のところ…
瞑想で今花盛りなのは、イメージ瞑想と思われますが、私にはこれは全く不向きです。
瞑想中、イメージが浮かび上がってくるのは自然な事として、何故その発露が、よそから与えられるイメージで覆われなければならないのか? 何故そのイメージを思念で追いかけなけりゃならないのか?…私には全く理解出来ません!…何か暗示とか催眠のようなものにしか私には感じられないのです。
私が関わってきた瞑想というのは、あくまでこれらの瞑想の主流からはハミ出した”瞑想モドキ”のことです。それは祈りというものと分けられない、という事を何度か言っていますが、この意味でもモドキのものです。
特別なやり方が無い、技法に頼らない、ああしよう、こうしよう、という人為的な意念に頼らず、無為に任せるものという事が出来ます。
既存のもので、私が馴染んだものとして、知る人ぞ知る”元波動瞑想”と呼ばれるもの、クエーカーの”沈黙の祈り”がそれに通じると思われます。それは又、私が知る以前から無勝手流?で馴染んできたものです。
このうち、クエーカーの礼拝会で私は、現臨に捉えられた事が幾度か有りましたが、こう言ったからといって、”それは現臨が降りてくる秘法なのか?”と思われても困ります。
(以前、礼拝会で私が涙を流して、それこそクエーカー~震える人~のようになってしまった時、これをクエーカー入信の表明のように受け取られたのか、古い会員さんから「どう、決心なさった?」と問われ、困ってしまった事が有ります。私は特定の宗教の神サマに落ちてしまったことは一度もありません。見た目にはともかく…)
果たしてそういうものが降りてくるのかどうかは分からないです。
ただ無為に何にもしないで、坐り続けていても…多分、退屈な時間が過ぎ去っていくだけなんじゃないでしょうか…
皆が皆現臨(キリスト教的には聖霊)に捉えられたら、多分大変な事になるでしょう。
そこで何もしない、という事の意味合いですが、それは人為的な事はしない、意念にハタラキかけない、ということです。
それは取りも直さず、上よりの力の通り道を開けておくことです。
といってもいきなり人為的な事はしない、と言っても、取り付くシマも無いですね。
そこで、こっちとあっちとのエレベーター的な役目のようなものとして、祈り的なものが有るのです。
取っ掛かりは人為的なものであっても、祈るという事は、自分の力を超えたものに意識が向けられるものです。
何をどう祈るとか、声を出して祈るか、どうかというよりも、なるべく自然と湧き出てくるものに任せたらいいと思います。
私は、クエーカーのような瞑想に近い祈りばかりでなく、普通の教会でやるような手を合わせ、声を出して祈るような場でも、現臨に捉えられてしまったことも有るのですが、まさその経験を言っているのです。最初は何だかわざとらしい、と感じていたものですが、いつの間にか上から加持を受けたような感じになって、無心な状態に移行してしまったのです。
ここに表側と裏側の妙が有る…(十字架の聖ヨハネなどのキリスト教神秘主義で、能動的祈りから受動的祈りへの移行とか言っているのは、多分こうしたことと関連しているのでしょう)
瞑想のようなものであっても、祈りの心持というものとは切り離すことが出来ません。
”意識がパッと向いちゃって、アララ~…”と言ったって、その基調あってのものであるのは言うまでもありません。
初めは形らしきものが有っても、いつの間にか無為な、自由な感じになってくる…
祈りということは、上よりの力に自由にハタラいて頂く、ということに通じますが、…それには又我々も自由であるべきです。
ベルジャーエフが「聖霊は自由な精神に働く、それは神への自由な応答による」と述べているように、聖霊を受けるという事は神的なものと人間的なものの自由な交流と言えるでしょう。
だから、私は瞑想だとかある形を連想させるものでなく、瞑想モドキと言いたいのです…。