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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

妥協の無い精神

2016-08-14 13:54:33 | 求道、探究
”現臨が降臨…特別な方法など無しに、ただ意識を向けるだけで現臨が降りてくる…”
などと以前は取り付く島の無いような事を書いていましたが…
やはりですねえ…これは追いかけようとしたり、捉えようとしたりすると、遠退いて行ってしまうものなので、”こういうやり方がある!”などと心に無いことは書く気にはなりません。
”意識を向ける”なんてことは敢えて言う必要も無いことで、ある人たちは放っておいても自然にそういう事になってしまうのです。
つまり、やり方などに頼らなくても意識が向いちゃってしまうのです。
何ににかって?…多分その人が感じられ得る最善の何かに、でしょう。
そのものを目の当たりにする以前から、ある人にはどこかで感取出来るのでしょう。
これを”元々その人に有るものだから”という言い方も出来ますが、とにかくそれこそ”意識する、しないに関わらず”、理屈なしに引き付けられてしまうものなのです。
祈り…祈り心は大切と私はいつも思っていますが、前述の向いちゃう人というのは(祈りというものの解釈はおいといて)、大体そういう心持になってしまうものです。最善のものに会うという事がどういう心の姿勢かという事が自ずと分からされるのです。
これは理屈、方法に従うとかって話じゃありませんね。
こういう事というのは、実際にそっちに意識が向かない向きには、スルーしてもらうしかないようです。
というか、大多数の向きはもうスルーされていますね!…意味分からんでしょうし…(ハイ、意味の無いこと書いてます)
要するに関心が無ければ、好きでなければ意識が向きようが無い…これはどうしようもないことですね。人はそれぞれ意識が向いた方に赴く訳です。
意識が向かないことを向け変えようとするのは、一種の暴力みたいなものです。
科学的に実証されたものにしか真実を見出され得ない向きは、トコトン気が済むまで追求されたらいい…
人生は自分の力で切り開くもので、神や宗教などに頼るべきでない、という向き…
自分が信奉している教えにしか真実は無いと愚直なまでに信じる向き…
ひたすら自分の心身の向上、進歩、あるいは悟境をめざし、修行に邁進する向き…
気が済むまで追及、精進なさったらいいでしょう…
この点、信仰の強要とか人心を扇動する言動というのは、その発信自体中途半端な、不十全な意識の顕れと言えるでしょう。
これに同じように、中途半端な、不十全な意識が流れて行くものです。
こういう馴れ合いで無しに、自ら湧き出てくる意識にトコトン従ってほしいものです。
ただ、無責任かもしれませんが、私にはそれぞれの向きが果たして然るべきところに導くものなのか、どうかという事は分からないです。
言うまでも無く私は、価値観や見地の違う、各々の人間ではないから…
私自身が向かうところにしたって、ホントにそうなのかどうかも分かりません。
ただ、自ずと意識が向いちゃったんだから仕方がありません。
そして、それは今の私の限界内では最善の道だった、と言えます。
(もし、人生の最後かなんかの局面で、最善だったかと問われた場合には分からないことですけれども…)
最善という表現を自分が許していることは、自分が捉えようとしたことでなく、捉われてしまったことであり、そこで目の当たりにしたことは、すべての思われたまま、考え得るものを超えていた、という事です。
こういう事というのは、ある事にトコトン生き切って、何らかの決着点が与えられた上でないと、本来開かれないものなのかも分かりません。
又、何故私のように人生の多くの局面ですぐ妥協して、弱音を吐いたり、ある道を歩んでいても容易く道を変えてしまう、中途半端な人間がそういう事になるのかも全く分かりません。
余程イイカゲンということなのでしょうか? 不十全感の固まりだったのでしょうか?
ただ、一点だけ、”最善のものは自分で掴み取るのでなく、与えられるものだ…”という予感が与えられてからは、その時機を妥協の無い精神で待ち望んでいたのです。
これは私自身に関することですが、各々においても妥協することなく、各々の最善の道を歩まれんことを願うばかりです。


























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