人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

因縁と風

2016-08-28 05:38:21 | スピリチュアル
誰でも、気になってしょうがない人っているものですね。
自分は意識しているつもりは無いのだけれど、なぜか気になる…それが異性で、胸キュンするようだったら、”恋しちゃったのかも”…という事になりますが、ここで触れようとしているのは、もっと重い方…自分のネガティブな感情を呼び覚まさずに居れないような人間関係に関することです。
”アイツの事は考えるだけで虫唾が走る…”自分の世界から消え去って欲しい、と思っていても、知らず知らずにその世界の憎むべき敵として、自分で居座らせていたりします。
そしてその言動に接すると何かと因縁をつけてやりたくなります。
という事は自分とその人間には因縁が有るという事なのです。
相手は自分の事をどう感じているかは分からないのですが(そう感じるかどうかは感受性の強さにもよります)、とにかく”オノレー…”というのが有れば、悪因縁が表に顕れている、という事です。そして、それは全くもって己の問題です。
この問題を見えにくくしているのは、内心その相手の事が脳裏から離れないでいるにも関わらず、表面的思いでは”あんなバカと俺とは関係ない!…あんなヤツあ、さっさと消えちゃえばいいんだ!…”と無視しよう、排除しよう、つまり問題をフタ閉めさせてしまうところにあります。
フタの中でたまり積もった問題を別の誰かにぶつけたりして、悪因縁は連鎖します。
そしていつまでもいつまでも、自分の心の底に問題はくすぶり続け、ネガティブな感情はますます増殖して行ってしまうのです。
さらには、宗教とかスピとかをかじっている人は、”ネガティブな感情を出してちゃ、イケナイ…自分はそんな低次元に、クダラナイ事にとどまってちゃならないんだ…”
と、色々もっともらしく案じたりはしますが、ずっと問題は複雑になってフタ閉めされたままです。
これが、ホントに低次元、クダラナイ事だと思いますか?…だったらあなたの力、魔法でさっさと片付けりゃいいでしょ!
私はつくづく思います、ホントに悟った人(というのが居るとすれば)というのは、そういう事に縁の無い人じゃなく、その問題に深く向き合える人だ、と。
大概の人は、因縁の相手を無視したり、問題が無いようなフリをして、強がりをしたがるものですが、自分の弱さ、限界に向き合える、という事はホントにホントに強いことだと思います。
だからと言って、私は”高次元を目指しているあなたは、あなたの宿業にシッカリ、向き合いましょうね…”などと自分が出来もしない、キレイ事など言うつもりはありません!
人間の業に向き合うというのは、多分人間業では無いのでしょう。それは神業みたいなものです。
神的な愛というもの無しには、不可能でしょう。それは私やあなたの愛では無い!…愛は全ての思いを超えてハタラクものです。
それは、むせかえるような暑く淀んだ外気に、一陣の涼風が心地よさを運んでくれるようなものです。
限界ある自分からどうこうしようとするより、祈りなどを通じて愛のハタラキを呼び込むことが先決なのです。(それには決まった形など無く、憎ッくき因縁の相手をこの際徹底的に心の中で罵倒する、というのも効果が有るかもしれません。だがそれよりもそれを神にぶつけた方が私はいいと思います。普段は神に向けてるつもりのものが、ホントに向いちゃったりします!向くと風向きが変わります。…ま、高次元に居る人はやらないでしょうが…)
このあらゆるネガティブな因縁があふれ、暴風のように猛威をふるっている現代世界の中で、高遠なる真理を学んだり、より高い次元を目差して修行したり、平和運動に挺身したりすることよりも、我々一人一人の悪因縁が愛で溶かされることの方が、どれだけその歯止めになるか、計り知れないものが有ります。
悪因縁は、この世に生き地獄をもたらすものです。
だが、そこに愛のハタラキが介入するとき、まるで奇跡のように地上天国の種となるものです。
どんなに些細に見える人間関係でも、天国と地獄の分かれ目となります。そこに仮初のものなど一切無いのです。
私自身全く他人事でなく、ここのところの風向きにあって、感ずることが有る次第なのです…。











コメント (2)
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