人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ただ一つ生きているもの

2017-02-06 13:42:07 | 現臨、ハタラキ
私が22年もの間関西に居た期間、特に最初の3年ぐらいの間のことは、ホントに断片的にしか思い出すことが出来ません。
社会人になって、多くの人が社会機構という神サマから何かの通過儀礼を受けて、それに適応するように人格が変えられてしまうように、私もそうなる運命になるのかなあ…と思ったりしました。

”美しい夕日を見ても、感動しなくなってしまうのだろうか…
迷子の子猫が泣いていても、心が動かされなくなってしまうだろうか…
そして…あの数年前に芽生えた、生の神秘へと誘う高揚感…今はもう感じられない…
もう、二度と取り戻すことは出来ないのだろうか…”

それから一体何年経ったんだっけ?…三十数年?…”へえ…”
生まれる前のような気がします(笑)
社会生活の忙しさ、戸惑いの中で、狡猾な知恵も身に着け、悪いこと?も覚え、目先の損得に捉われるなどして、自分なりに感じている本来の私の有り様に確かに覆いが掛けられました。
この”感じ”とは、あの内的感覚というか、心身を包み、浸透してくるものと共にあるもののことです。
その時分、確かに自覚的な領域ではそれはすっかり失われていました。
ただ、精神的な探究は相変わらず、薄れる事は無かったのです。
その頃、巷では、それまで宗教的なものとして扱われていた分野に”精神世界”なる呼称が生まれ、注目されつつありました。
バグワン・S・ラジニーシ、クリシュナムルティ、グルジェフ…主として米国経由でこれらのその道のマスターたちの本が次々に翻訳され、目敏い私は、それらも押さえてはいたのです。
しかし、あの”感じ”は蘇ることは無かったのです。
僅かに、この頃その道関連の出版において私的に特筆すべきことは、手島郁郎先生の著書が続々刊行されるようになったこと、小池辰雄先生の著作集も同時期に刊行中だったことです。それらに触れる事で確かにスポット的ではありましたが、あの息吹が蘇ってくるのを覚えていました。
この事を改めて考えたことは無かったのですが…ハテ…一体、何故そうなるのでしょう?
私は生来的にクリスチャンなのだろうか?…いいや、ンな訳無い!…生理的に大キライです、アーメン連など、ムシズが走るわいっ!…
あの息吹が理屈抜きに伝わってくるのは、”オオ、ジーザス…エス様…”と言った宗教感情からは絶対に来ません! 声も無く、音も無く迫って来るものです。
理屈抜きのことは考えても分からない事とはいえ、じっくり考察せねばならないでしょう…。(断片的にこれまで書いていることではあります)
今、言える事はこういう事です。この理屈抜きに伝わってくるものにこそ、あの感じの内実があり、それは時空を超えてこの今とつながっている、という事です。だから三十年前のことが断片的なものながら鮮明に蘇ってくのです。(これはあくまで私の個人的な感覚に依るものなのです)
これはもう、この現実に臨むもの…現臨です。
それは表面的意識、生活の中では覆われ、見えなくなり、あるいは失ったり、消えたりします。
人生というものは晴れたり、曇ったり、何かが生まれ、何がが失われ、生きてるようだったり、死んでいるようだったりの繰り返しです。
しかし、空に覆いがかかり、見えなくなっても太陽自体は消えないように、表向きの変化に関わりなく、根柢にただ一つ生き続けているものがある…
皆既日食のように日が差さなくなっても、ずっとそこに有り続けているのです。
三十数年前のことは、大阪や尼崎の下町の太陽のように、うすらボンヤリして映っています。
だが、ここに現臨の息吹が蘇ると共に、にわかに六甲の山々が、その景観を表し始めるように鮮明に映り出します。
黒雲が晴れて”向こう側”が見えてくる…そこにあるのは”神の戸”か、”宝の塚”か…。












コメント
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