人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

暗夜を照らすもの

2017-02-21 16:17:56 | 回想
昨日、シモーヌ・ヴェイユ、十字架の聖ヨハネ、神秘思想、苦難を通って恩寵に導かれる…などと書いてUPした直後、ハタと閃いたものが有りました。それは…
”あの精神的トンネル状態というのは、「霊魂の暗夜」みたいなものだったのでは?”
というものです。これはキリスト教神秘思想(主としてカソリック)に伝わる観想を主体とした修徳の道のプロセスで起こる、それまでの修道生活で受けた甘美な喜び、法悦、超自然的認識などを突如失い、裏返したように現実に起きる精神的苦難、無味乾燥、空虚な感覚…といった総じて神に見放されたような感覚、状態のことです。
こんなことはこの32年間考えたこともありませんでしたが…そうかもしれないし、違うかもしれません。まず言わねばならない事は、私はその神秘的な修徳の道に関心はあっても携わってなど居ませんでした。
その一年半ほど前、所謂神秘体験のようなのは有りました。だけど、それは長く険しい観想的修徳の道に比べたら、あまりにも突発的な昨日の春の嵐のようなもので、直接的つながりはありません。しかし、私はいかなる形にせよ、いかなる精神的道にもこのような逆行、退行とも取れるプロセスは付きものだと感じざるを得ません。そういう事は今思い返して感じる事なのですけれども…
もっとも32年間、つらかったので中々思い起こすことが出来なかった…いや思い返そうとしても鮮明にならない、という理由もあるのです。(そこから抜け出せたことはハッキリ”身に覚えて”いますが、つらいことはどうも”重さ”に比例して印象が霞んでいるのです)
そもそも、こういう重そーな記事をどうして書いているのかというと、最近どうもあのトンネルに入りかけた時と似た兆候が私の周辺に感じたからなのです。
ただ状況はあの時と今では全然違います。今は放っといてもポカポカ陽気になったり、疾風怒涛の如く風が吹くように、自然と重い空気を追いやってしまうハタラキにゆだねることが出来ます。
あの時の私はそういう事を平然と言っているような人は超人、聖者に見えたはずです(笑)
当時の私はその気になればその時分覚えていた瞑想や祈りの方法によって、精神的苦境から脱却しようと思い立つことも出来ただろうと思うのですが、何故かそうしたものに頼ったという記憶が有りません。そういう心のゆとりも無かったか、そうしようとしても重圧の方が勝って追いやられたのか…
いや、違う…私は32年間封印されていた微かな記憶が呼び起こされました。
私は出口の見つからない暗闇の中で、どんなその脱出する方法にも頼ろうとせず、方法無き道、道なき道にゆだねようとしていたのです。
その一年半前、私が精神的目覚めに与ったのは、全く上よりの力、恩寵、道なき道によったものでした。
”この苦境はその関連で起きているのではないか、それではそれを受け容れ、その導きにゆだねて行くしか道は無いのではないか!”
その時の心境は、今ここで書いているように、ハッキリとした意識付けられたものではおそらくなかったでしょう。
ただずっと意識の根底に変わらず根付いているものは分かります。
そうです、根付いていたのです。表面的には消え去ってしまい、体感出来ない、と思い込んでいたもの…少なくとも当時の私はそれに向き合おうとしていたのです。

”あの夏の突然の至福の訪れ…確かに目覚めたものはあった…
しかし、この問題だらけの未熟な私にはあまりに不相応なものだった…
恩寵というものをどこかで獲得し、所有出来るものだと思っていた…
しかし…神は何処にお隠れになったのか…神無き、恩寵無き人生、世界…失って初めて分かるもの…絶対にこちらの手のかからないもの…真空を何ものかで埋めるような真似をしてはならない(シモーヌ・ヴェイユ)、恩寵には何も付け足してはならない…それ自体にゆだねばならない…”
この事を身をもって知り、苦難の道を通ることを受け容れたのでしょう。(自らの意志で進んで受け入れるという事とはニュアンスが違います)
それは確かに暗夜を照らすものでした。誰のものでも無く、誰にでも照らす光…




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