人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

重力と恩寵

2017-02-20 16:49:36 | 人生の裏側の図書室
「魂の本性的なうごきは、すべて物体の重力の法則に類似した法則によって支配されている。恩寵だけは例外である」シモーヌ・ヴェイユ・重力と恩寵(春秋社・講談社・筑摩書房刊)

昨日記した私の精神的トンネル状態は、32年前の三月それがやって来た時と同じように、いくつかの事象が重なっていつの間にか去って行ったのでした。
テレビで古いフランス映画「どん底」を観た事、これまた古いアルゼンチン・タンゴのレコードに魅せられたこと(どおってことない事ですね)…そして忘れる事の出来ない事はフランスの女性哲学者、作家のシモーヌ・ヴェイユの「重力と恩寵」という彼女の断片的な言葉を集めた本にあった、上記の言葉に接したことでした。
このヴェイユにはその半年くらい前に初めて触れていたのですが、この時期私は確かに傾倒していたのです。20世紀の所謂神秘思想家の一人として以前から関心はあったのですが、十字架の聖ヨハネなどのキリスト教神秘主義の現代的意義といったテーマなどに惹かれたんだと思います。
彼女は我が国でも昔から人気があるようで、主著は様々な形で何回も復刊されているし、伝記的、評論的な書物は数々出ています。
だけどねえ…正直言って今の私には少々重い…です。
どうも、このヴェイユと触れたことが私のその暗く重い心の状態をより加重させてしまった気来があるのです。
そんな訳で私の沈鬱なこの期間というのは、このヴェイユって人と切り離せないようです。

「苦難、不幸は純粋に受け入れなればならない…忍耐をもって」
今と違って?マトモに書いてあることをそのまま受けようとする素直な青年だった私は、こうした言葉を噛みしめるように自分に言い聞かせ、つらい精神生活をひたすら耐え忍んでいたものです。(重いでしょ?書いてる私もです)
自分で、自分の思いでそうせねば…と力んでいたのですが、つらいものはつらい…ヤセ我慢みたいです。
苦難を逃げずに立向き合い、背負っていく…その事には多分意義はあり、やっただけのこともあるだろうと思います。
ただ、無理が高じるとますます事態は重くなり、悪くなって、いよいよ抜き差しならぬ事態になる場合もあります。(私は推奨しません。出来んもんは出来んでいい…)
しかし、”いつも、ラクをしよう、嫌な事からは逃げよう”ということとは別問題でしょうが、不幸に自ら進んで向かっていける人間、幸福になりたくない人間などこの世に居るでしょうか? 苦行僧ならいざ知らず…
又、ヴェイユにも伺われるように、キリスト教などでは苦難、不幸を通らなければ、愛、調和、神の世界を見出すことが出来ない、という観方もあります。
私はある意味では、そう感じますが、ある意味…根本的には”そんなことない!”と感じています。何も苦しいことなど無くたって、意識の変容とか喜ばしきことは起きる時には起きます!
要するに意識があっちにフォーカスされ、光を受ければいいのです。(やって出来る事じゃないが…)
上記のように言われることは、そういう事は、平穏で何事も無い状態が続いている時には意識があっちに向きにくいので、不幸や苦難がその契機となり得るということなのでしょう。
別の観方をすれば、この現実に生きている人間で特別な自覚は無くとも、苦難、不幸でない人間など誰一人いない、という事も出来るでしょう。
だから、初めて掛け値なしに幸福というものに与った時、誰しもがそれを実感出来るのでしょう。
そして、幸福でないということは苦しい事…それはほっといても重力の法則のように加重され、我々を圧して行きます。
私はこの重さというものは出口の無い思いと共により増し、固まってくるのを身をもって知ったのです。
又、一瞬その重力の法則を無視したようなハタラキも本当に実感しました。
そして、ほとんど同時にヴェイユのあの言葉に出会ったのです。
恩寵…”それはつい一年半ほど前目の当たりにした事ではなかったか?
自分で何とかしようとしなくても、自ずと重力を無力化させるものに手放せばいいんだ…”
私が本当にその事に意識的になったのは、この時だったのです。
重力の法則と無重力の場?の原理というのは本当に私が実地体験を通して学ばされたことです。
そんな訳でシモーヌ・ヴェイユの名も忘れることが出来ません。







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