私は36年前、大阪で社会人となった訳ですが、実はずっと兵庫県人だったのです。
大阪の人から、「アンタ家どこなん?」と訊かれると…
「尼崎です…」とバカ丁寧に答えます。
すると…「フーン…さよか…」と何やらバカにしたような表情をしながら返す…
私がその22年もの関西時代のほとんどの期間居住していたのが、大阪のすぐ西隣、この兵庫県尼崎市というところなのでした。
大阪人からはどうも軽蔑して見られているエリアなのですが、彼らには兵庫県というイメージはあまり無いのかもしれません。確かに私にもここと隣の西宮市との境を流れる武庫川を越さないと兵庫県でない、という感じはします。(同じ感想を何人もの人から聞きました)
そして電話の市外局番は、ここだけ大阪市と同じ06番! ”中途半端やなあ”(このフレーズをエビぞりになりながら連呼する芸で一時人気の有った、尼崎出身の漫才コンビが居ましたが、コンビ名をド忘れしました…)
しか―し…先程のやりとりの続きで「で、”あま”(尼崎の通称)のどこなん?」と訊かれるや、待ってましたとばかりに「阪急(これを付け加えるべし!)武庫之荘です!」と、答えると…「ほーっ…ええトコ住んでるやん…」となるのです!(クッ、クッ…いいキミ!…この微妙なニュアンスはこの近辺の人でないとピンと来ないでしょう)
ホンマに”あま”はええトコですよー! 私は最初からどこか懐かしさが有って親しみを感じました。ただしそこの北部の事ですが…
何故、ここに惹かれるのか?と言ったら、北部のあちこちを流れている中、小河川(実質はほとんど用水路)があって、恰好の散策エリアとなっていたからなのですが、私は散策しているうちにハタと気付いた事が有ります。その川の近辺に佇む小杜、神社…そのほとんどが素戔嗚(須佐能)神社だったのです!
私が長く住んでいた、先の阪急武庫之荘の特に北西にかけて、百米歩けばこの神社に突き当たるくらい随所に見かけることが出来ます。
(といっても有名な神社など一つもありません。今日は何時にもましてマイナーかつローカルな記事なのです…)
素戔嗚が祭神の神社というと、関東では、氷川神社(これは関西にはほとんど存在しません)が有名ですが、その多さはさいたま市(旧大宮、浦和)をしのいでいるかもしれません。
それにしても、尼崎一体は昔から稲作が盛んで、広く田んぼが開かれたところですが、特別農耕に関連した神でもない、素戔嗚という神がまつられる理由があるのでしょうか?
私はこれには前記した用水の存在と関係があると思います。武庫川や猪名川(市の東部を流れる)はしばしば台風や大雨で決壊するので、中世の頃から治水工事が行われていたそうです。奈良時代の密教僧、行基は当地ー主に東部の猪名川流域ーで治水や稲田の開発に携わり、素戔嗚を祭る、富松神社、塚口神社(いずれも阪急塚口~武庫之荘間に所在)などはいずれも行基が創建したらしく、素神への崇敬も篤かったのでしょう。
素戔嗚尊の大蛇退治というのは、大蛇のように荒れ狂う川を治めたことを象徴している、という説もありますが、素神は氷川の神であり、何といっても川と密接な関わりのある神です。治水用の水路はそのまま農業用水にも用いられ、江戸時代には武庫川から六樋(ろくひ)と呼ばれる六つに枝分かれする農業用水が開かれました。
現在は六つの流れを全てを見ることは出来ませんが、一つの筋が二つになり、三つになり…と途中まではその分流して行く様子を見ることが出来ます。
上流はチョロチョロとした清流をたたえる用水路が、南下するにつれ徐々に川幅も、水量も増し(水質の悪化も)、下町の川へと変貌していく様を見ていると、そんなに距離は離れていないにも関わらず、その周辺の景観の変化ともども、時空を超えて別の街に来てしまったような錯覚を覚えます。
素神の妻神稲田姫はその名の通り、稲作と所縁が有りそうですが、高天原では乱暴狼藉を働いた素神も心も穏やかになり農耕の守り神となったのでしょう。(これらの神社はいずれも江戸時代までは素神の神仏習合に対応した牛頭天王が祭神だったそうです)
私が生まれ育った東京の町も氷川神社がアチコチに有り、近くに中小河川が流れる風情…どおりで懐かしみ、親しみが感じられる訳です。
私がミタマの親、親神、産土神というものを意識したのは、このように住んでいたところが素戔嗚の杜で囲まれていたことを知ったからなのでした。
大阪の人から、「アンタ家どこなん?」と訊かれると…
「尼崎です…」とバカ丁寧に答えます。
すると…「フーン…さよか…」と何やらバカにしたような表情をしながら返す…
私がその22年もの関西時代のほとんどの期間居住していたのが、大阪のすぐ西隣、この兵庫県尼崎市というところなのでした。
大阪人からはどうも軽蔑して見られているエリアなのですが、彼らには兵庫県というイメージはあまり無いのかもしれません。確かに私にもここと隣の西宮市との境を流れる武庫川を越さないと兵庫県でない、という感じはします。(同じ感想を何人もの人から聞きました)
そして電話の市外局番は、ここだけ大阪市と同じ06番! ”中途半端やなあ”(このフレーズをエビぞりになりながら連呼する芸で一時人気の有った、尼崎出身の漫才コンビが居ましたが、コンビ名をド忘れしました…)
しか―し…先程のやりとりの続きで「で、”あま”(尼崎の通称)のどこなん?」と訊かれるや、待ってましたとばかりに「阪急(これを付け加えるべし!)武庫之荘です!」と、答えると…「ほーっ…ええトコ住んでるやん…」となるのです!(クッ、クッ…いいキミ!…この微妙なニュアンスはこの近辺の人でないとピンと来ないでしょう)
ホンマに”あま”はええトコですよー! 私は最初からどこか懐かしさが有って親しみを感じました。ただしそこの北部の事ですが…
何故、ここに惹かれるのか?と言ったら、北部のあちこちを流れている中、小河川(実質はほとんど用水路)があって、恰好の散策エリアとなっていたからなのですが、私は散策しているうちにハタと気付いた事が有ります。その川の近辺に佇む小杜、神社…そのほとんどが素戔嗚(須佐能)神社だったのです!
私が長く住んでいた、先の阪急武庫之荘の特に北西にかけて、百米歩けばこの神社に突き当たるくらい随所に見かけることが出来ます。
(といっても有名な神社など一つもありません。今日は何時にもましてマイナーかつローカルな記事なのです…)
素戔嗚が祭神の神社というと、関東では、氷川神社(これは関西にはほとんど存在しません)が有名ですが、その多さはさいたま市(旧大宮、浦和)をしのいでいるかもしれません。
それにしても、尼崎一体は昔から稲作が盛んで、広く田んぼが開かれたところですが、特別農耕に関連した神でもない、素戔嗚という神がまつられる理由があるのでしょうか?
私はこれには前記した用水の存在と関係があると思います。武庫川や猪名川(市の東部を流れる)はしばしば台風や大雨で決壊するので、中世の頃から治水工事が行われていたそうです。奈良時代の密教僧、行基は当地ー主に東部の猪名川流域ーで治水や稲田の開発に携わり、素戔嗚を祭る、富松神社、塚口神社(いずれも阪急塚口~武庫之荘間に所在)などはいずれも行基が創建したらしく、素神への崇敬も篤かったのでしょう。
素戔嗚尊の大蛇退治というのは、大蛇のように荒れ狂う川を治めたことを象徴している、という説もありますが、素神は氷川の神であり、何といっても川と密接な関わりのある神です。治水用の水路はそのまま農業用水にも用いられ、江戸時代には武庫川から六樋(ろくひ)と呼ばれる六つに枝分かれする農業用水が開かれました。
現在は六つの流れを全てを見ることは出来ませんが、一つの筋が二つになり、三つになり…と途中まではその分流して行く様子を見ることが出来ます。
上流はチョロチョロとした清流をたたえる用水路が、南下するにつれ徐々に川幅も、水量も増し(水質の悪化も)、下町の川へと変貌していく様を見ていると、そんなに距離は離れていないにも関わらず、その周辺の景観の変化ともども、時空を超えて別の街に来てしまったような錯覚を覚えます。
素神の妻神稲田姫はその名の通り、稲作と所縁が有りそうですが、高天原では乱暴狼藉を働いた素神も心も穏やかになり農耕の守り神となったのでしょう。(これらの神社はいずれも江戸時代までは素神の神仏習合に対応した牛頭天王が祭神だったそうです)
私が生まれ育った東京の町も氷川神社がアチコチに有り、近くに中小河川が流れる風情…どおりで懐かしみ、親しみが感じられる訳です。
私がミタマの親、親神、産土神というものを意識したのは、このように住んでいたところが素戔嗚の杜で囲まれていたことを知ったからなのでした。