「回想は過去の単なる保存でも再建でもなく、常に一個の新しい過去、変貌せしめられた過去である。回想は創造的性格を持っているのである」(ベルジャーエフ)
こないだ私的な事ですが、実に46年ぶりに洋楽ヒット、マイク・ネスミスとファースト・ナショナル・バンドの「シルヴァー・ムーン」という曲を聴きました。マイク・ネスミスは既にこの1971年春の時点で、昔の名前で出ている感の人(60年代中期、一世を風靡した米ポップ・グループ、モンキーズの元メンバー)でしたが、もうすっかり忘れられた名前です。他のメンバーともども…
それにしても私は同時期の洋楽ヒット曲を昨日のように実によく覚えています。例えば…CCRの「雨を見たかい」(CMの絶大な効果で、この曲が世間で最も認知されているでしょう〉、ブラック・サバスの「パラノイド」(オジー・オズボーンなんて人全く知りませんでした)、バッド・フィンガー「嵐の恋」(アップル・レコードから第二のビートルズというフレコミで売り出したグループ。ヘタクソなG・ハリソンみたいなギター・ソロが聴ける)…
どうして記憶が鮮明になっているのか…それは何度か書いているように、この時期それまでの学校のイジメなどがあって暗く、重い心の状態から春の到来とともに一気に光が差し込むようになったことと無関係ではないでしょう。
そして、そのように当時を思い返している現在、その幸福をもたらすような”常春”なる息吹と共にあること…これが重要なことなのです。
ただ一つ問題が無い訳ではありません。もし、過ぎ去った過去の懐かしい、ずっと大切にしたい想い出があったとしたら…それらは失ってしまう事になるかも知れません。
だけど、これだけは断言出来ます! 悪いことには絶対になりません! 形は変わってもずっと幸福と共にあるからです。
想い出は新たなる視点、感じ方、味わいのもとに現在によみがえるのです。それで幸福でない訳が無い…ラマナ・マハルシが言うように、多くの人は幸福であることで、そうと知らずに真我、神の恩寵を受けているのですから…
幸福であることが本来性であり、不幸なことというのは、この本来の状態から離れてしまっていることと言えるでしょう。だから意識に根付いていないので記憶が鮮明でないのでしょう。
しかし、思い出したくない、触れたくない不幸な記憶というものも人間どうしたってありますよね。そのことを自分の思いの中にフタをし続ける事で、いつも何となくモヤモヤと不十全感、不幸感といったものが頭にもたげていて、晴れやかになれない要因になったりします。フタをしていても忌まわしいことは消えたわけでは無いのです。
そういう場合は、”常春の息吹の光をそこに当てればいい!”
なんて、平然と言ってのけてますが、これは分かり易く言っているだけでちっとも正確ではありません。第一、やって出来る人は居ません!(多分)
これはいつもながら語るに微妙な事で、意識をその不幸だった過去に向ければいいのです。(これも平然態だったか…)
そうすると、光が自ずとそっちにハタラく訳だから私は何もしてないのです。
こういうやり方とかが飛んでしまっていて、取り付くシマも無いことを説明する場合は、”祈ればいい”と言っています。
それは、”神に不幸な過去をどうにかして欲しい…”と願い事をするというよりも、神的なものが意識に呼び起される、という事自体が、その”光が当たる”ということにつながるのです。
重要なことは、光が当たるには、フタは閉めっぱなしでは当てることが出来ない、ということです。
つらく、重く、勇気が要ることかも知れませんが、不幸な過去、自分に向き合う必要があるのです。でも、なかなか自分の意志ではそういう風になれるもんじゃないですね。こういう事でも私は”祈る”という事の意味を感じているのです。(だから別にこういう事を無理に推奨してる訳じゃありません。参考までです)
このように、良きことも悪しきことも過去というものは、既に決定され、動かないものでは無いのです。
スピ系で言う”過去はない、現在しかない”という言葉は一面しか伝えていません。
過去は現在と結びつくことで、新たな光の下によみがえるのです。
又、過ぎ去ったものは虚しく、無力なものと決めつける訳にはゆきません。
過去に光が当たることにより、そこからフィードバックして、現在あるいは未来にさえも、逆に新たな光、創造的エネルギーがもたらされることにもなり得るのです。
分断された過去、現在、未来が有るんじゃない…時間を貫いている時の神サマが生きているのです。
こないだ私的な事ですが、実に46年ぶりに洋楽ヒット、マイク・ネスミスとファースト・ナショナル・バンドの「シルヴァー・ムーン」という曲を聴きました。マイク・ネスミスは既にこの1971年春の時点で、昔の名前で出ている感の人(60年代中期、一世を風靡した米ポップ・グループ、モンキーズの元メンバー)でしたが、もうすっかり忘れられた名前です。他のメンバーともども…
それにしても私は同時期の洋楽ヒット曲を昨日のように実によく覚えています。例えば…CCRの「雨を見たかい」(CMの絶大な効果で、この曲が世間で最も認知されているでしょう〉、ブラック・サバスの「パラノイド」(オジー・オズボーンなんて人全く知りませんでした)、バッド・フィンガー「嵐の恋」(アップル・レコードから第二のビートルズというフレコミで売り出したグループ。ヘタクソなG・ハリソンみたいなギター・ソロが聴ける)…
どうして記憶が鮮明になっているのか…それは何度か書いているように、この時期それまでの学校のイジメなどがあって暗く、重い心の状態から春の到来とともに一気に光が差し込むようになったことと無関係ではないでしょう。
そして、そのように当時を思い返している現在、その幸福をもたらすような”常春”なる息吹と共にあること…これが重要なことなのです。
ただ一つ問題が無い訳ではありません。もし、過ぎ去った過去の懐かしい、ずっと大切にしたい想い出があったとしたら…それらは失ってしまう事になるかも知れません。
だけど、これだけは断言出来ます! 悪いことには絶対になりません! 形は変わってもずっと幸福と共にあるからです。
想い出は新たなる視点、感じ方、味わいのもとに現在によみがえるのです。それで幸福でない訳が無い…ラマナ・マハルシが言うように、多くの人は幸福であることで、そうと知らずに真我、神の恩寵を受けているのですから…
幸福であることが本来性であり、不幸なことというのは、この本来の状態から離れてしまっていることと言えるでしょう。だから意識に根付いていないので記憶が鮮明でないのでしょう。
しかし、思い出したくない、触れたくない不幸な記憶というものも人間どうしたってありますよね。そのことを自分の思いの中にフタをし続ける事で、いつも何となくモヤモヤと不十全感、不幸感といったものが頭にもたげていて、晴れやかになれない要因になったりします。フタをしていても忌まわしいことは消えたわけでは無いのです。
そういう場合は、”常春の息吹の光をそこに当てればいい!”
なんて、平然と言ってのけてますが、これは分かり易く言っているだけでちっとも正確ではありません。第一、やって出来る人は居ません!(多分)
これはいつもながら語るに微妙な事で、意識をその不幸だった過去に向ければいいのです。(これも平然態だったか…)
そうすると、光が自ずとそっちにハタラく訳だから私は何もしてないのです。
こういうやり方とかが飛んでしまっていて、取り付くシマも無いことを説明する場合は、”祈ればいい”と言っています。
それは、”神に不幸な過去をどうにかして欲しい…”と願い事をするというよりも、神的なものが意識に呼び起される、という事自体が、その”光が当たる”ということにつながるのです。
重要なことは、光が当たるには、フタは閉めっぱなしでは当てることが出来ない、ということです。
つらく、重く、勇気が要ることかも知れませんが、不幸な過去、自分に向き合う必要があるのです。でも、なかなか自分の意志ではそういう風になれるもんじゃないですね。こういう事でも私は”祈る”という事の意味を感じているのです。(だから別にこういう事を無理に推奨してる訳じゃありません。参考までです)
このように、良きことも悪しきことも過去というものは、既に決定され、動かないものでは無いのです。
スピ系で言う”過去はない、現在しかない”という言葉は一面しか伝えていません。
過去は現在と結びつくことで、新たな光の下によみがえるのです。
又、過ぎ去ったものは虚しく、無力なものと決めつける訳にはゆきません。
過去に光が当たることにより、そこからフィードバックして、現在あるいは未来にさえも、逆に新たな光、創造的エネルギーがもたらされることにもなり得るのです。
分断された過去、現在、未来が有るんじゃない…時間を貫いている時の神サマが生きているのです。