私は宗教的な世界との関わりが多かったのですが、自分が何教徒だとかについて意識したことなどありません。学生時代の数年間を除いて。
にも拘らず、人からは勝手にレッテルを張られました。曰く大本教、神道、道教、キリスト教、宗教じゃないけど、フリーメーソン!…
道教については、私が中国人に似ているからだと言われたことがあります。ひょっとして私の前世は景教(唐の時代、中国に渡来してきたキリスト教の一派。多くは道教に同化したとも言われ、日本にも渡来して仏教、神道に影響を与えたとも言われる)徒だったのかもわかりません。(笑)
かように実にイイカゲンなのですが、強いて私の精神的な道において主流だったものとして神道的なもの、キリスト教的なものを挙げることが出来るかもしれません。
”じゃ、そのうちどっちなのか?”と言われたら、”どっちも!”としか言いようがありません。どうしたって切り離すことなど出来ないのです。
私の精神には日本的なものとユダヤ・キリスト教的なものが同居しているのです! 前者が母で後者が父みたいなものです。
つまり私は生きている日本=ユダヤ同祖論なのだ!(笑)
私は宗教にまつわる排他独善というものをとにかく生理的に受け付けません。その最たるものはキリスト教…それはユダヤ教からの遺伝と観ることも出来るでしょう。
上から目線の宣教的野心に駆られた戒律だとか、ドグマだとか、教会運営だとかの押しつけ…
こういう”がいこく”の風潮は私に固有の日本的寛容性とは相容れることが出来ません。
この国には取ってつけたような決まり、やり方など要らないのです。天地自然の道というものがあるのです。
一元でなければ、二元でなければならないとか極端な、決めつけた物言い、この大和島根には何一つ根付かないのです。
しか―し…ご注意あれ!…我がカムナガラの道にも、偏狭な観方が忍び込むこともありますぞ!
日本的寛容の道とは、それ自体が相対化してはその内実は失われてしまいます。
それは諸々の宗教宗派の一つというものでなく、垣根が無い、という事を言い表しているのです。一元的根源論にもあらず、逆説的ですが、二元的に相対化した現れをも包容してしまう普遍性というものが根底にある、という道なのです。
とはいえ、それが単なる抽象的理念に留まっていては、生きたものとはなりません。
生きたもの、一陣の風といい、放電といい、火山噴火といい、そのハタラキとは、局限的なものであり、抽象的なものではありません。
具体的ハタラキとはどっかの誰かにでなく、あなたや私という具体的な存在にハタラクのです。
それは全体的というものでなく、一なるものという他ありません。この一なるものに出会う、ハタラキに預かるには、あらゆる時、あらゆる場、あらゆる道においてで無く、その時、その場、その道においてでなければなりません! 他に代わる道も無く、他に代わる当体もありません。
その意味でこちらの意識の有り様は、一神教に通じる主一無適なものとならざるを得ません。
しかし、又ご注意あれ!…その道というものは、こちらで定め、着することは本来出来るものではありません。
それはハタラキ自らの通り道であるべきはずのものです。こちらがそれに固着する時、そのハタラキの道は閉ざされるに至るでしょう!
どこまでも、開いたものでなければ生きたものでは無くなるのです。
それは普遍へと開かれた道、寛容の道と相即されることによって、 全一の道となるのです。
だから…この二つは切り離すことが出来ないのです!
この意味で我が主とは、全てであり、一なる主なのです!
主と一如になれば、もはやこちらは僕では無くなり、主はミタマ親であり、親子で結ばれます。
”神の御子”キリストの道とは本来、そのムスビに導くものではなかったのではないでしょうか? それは又我がカムナガラの道でもあります。
(ああ…天のエルサレム、高天原の地に結ばれんことを…)
それは又霊と体とのムスビでもあり…もうキリが無くなるので今日はムスビとなります。
とにかく私の内部にはこういうものが根付いているのです。
シャローム、平安あれかし…同胞の皆さん…
にも拘らず、人からは勝手にレッテルを張られました。曰く大本教、神道、道教、キリスト教、宗教じゃないけど、フリーメーソン!…
道教については、私が中国人に似ているからだと言われたことがあります。ひょっとして私の前世は景教(唐の時代、中国に渡来してきたキリスト教の一派。多くは道教に同化したとも言われ、日本にも渡来して仏教、神道に影響を与えたとも言われる)徒だったのかもわかりません。(笑)
かように実にイイカゲンなのですが、強いて私の精神的な道において主流だったものとして神道的なもの、キリスト教的なものを挙げることが出来るかもしれません。
”じゃ、そのうちどっちなのか?”と言われたら、”どっちも!”としか言いようがありません。どうしたって切り離すことなど出来ないのです。
私の精神には日本的なものとユダヤ・キリスト教的なものが同居しているのです! 前者が母で後者が父みたいなものです。
つまり私は生きている日本=ユダヤ同祖論なのだ!(笑)
私は宗教にまつわる排他独善というものをとにかく生理的に受け付けません。その最たるものはキリスト教…それはユダヤ教からの遺伝と観ることも出来るでしょう。
上から目線の宣教的野心に駆られた戒律だとか、ドグマだとか、教会運営だとかの押しつけ…
こういう”がいこく”の風潮は私に固有の日本的寛容性とは相容れることが出来ません。
この国には取ってつけたような決まり、やり方など要らないのです。天地自然の道というものがあるのです。
一元でなければ、二元でなければならないとか極端な、決めつけた物言い、この大和島根には何一つ根付かないのです。
しか―し…ご注意あれ!…我がカムナガラの道にも、偏狭な観方が忍び込むこともありますぞ!
日本的寛容の道とは、それ自体が相対化してはその内実は失われてしまいます。
それは諸々の宗教宗派の一つというものでなく、垣根が無い、という事を言い表しているのです。一元的根源論にもあらず、逆説的ですが、二元的に相対化した現れをも包容してしまう普遍性というものが根底にある、という道なのです。
とはいえ、それが単なる抽象的理念に留まっていては、生きたものとはなりません。
生きたもの、一陣の風といい、放電といい、火山噴火といい、そのハタラキとは、局限的なものであり、抽象的なものではありません。
具体的ハタラキとはどっかの誰かにでなく、あなたや私という具体的な存在にハタラクのです。
それは全体的というものでなく、一なるものという他ありません。この一なるものに出会う、ハタラキに預かるには、あらゆる時、あらゆる場、あらゆる道においてで無く、その時、その場、その道においてでなければなりません! 他に代わる道も無く、他に代わる当体もありません。
その意味でこちらの意識の有り様は、一神教に通じる主一無適なものとならざるを得ません。
しかし、又ご注意あれ!…その道というものは、こちらで定め、着することは本来出来るものではありません。
それはハタラキ自らの通り道であるべきはずのものです。こちらがそれに固着する時、そのハタラキの道は閉ざされるに至るでしょう!
どこまでも、開いたものでなければ生きたものでは無くなるのです。
それは普遍へと開かれた道、寛容の道と相即されることによって、 全一の道となるのです。
だから…この二つは切り離すことが出来ないのです!
この意味で我が主とは、全てであり、一なる主なのです!
主と一如になれば、もはやこちらは僕では無くなり、主はミタマ親であり、親子で結ばれます。
”神の御子”キリストの道とは本来、そのムスビに導くものではなかったのではないでしょうか? それは又我がカムナガラの道でもあります。
(ああ…天のエルサレム、高天原の地に結ばれんことを…)
それは又霊と体とのムスビでもあり…もうキリが無くなるので今日はムスビとなります。
とにかく私の内部にはこういうものが根付いているのです。
シャローム、平安あれかし…同胞の皆さん…