人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ノンデュアリティの示すもの

2018-03-10 12:29:07 | 哲学・思想
一時のブームは去ったようですが、ノンデュアリティなるものが流行したこと、それが浮き彫りにしたもの、それが起こった必然性などについては私なりに感じているものはあります。
彼らが一様に"自分という個人は幻想であり、元々存在しない...すべての苦悩はその幻想に基づいているのである"と説き回っていることにも一つの理は存していると言えます。
それは、私自身幼少の頃から何度も背負わされてきたことだからです。
思考のガンジガラメ地獄にハマり、「誰か、この頭から思いという思い、記憶という記憶を無くしてくれi」と何度心の中で叫んだことでしょう。
それは言うまでもなく、自分という思いのトラワレが、いよいよ自分を閉じ込めてゆく様を言い表しているのです。
"自分、自我、エゴ..."主我意識はここにハマらざるを得ないようです。
自我は、どっかからの"それを見つけて、確たるものにしなければならないi"という声に従うように、アイデンティティらしきものを自分で設え、依拠しようとします。
よく考えてみれば、この事はやはり物心付いた時から芽生えていた、"僕は一体誰で、何者なのか分からない...ここはどこで、世界が何だか分からない...こうしていることが夢なのか現実なのかも分からない..."という思いと裏表にあることだったのです。
"自分が何か分からない"ということは、生というもの、"ここに生きている"という実感が欠落するのです。
私の場合のように、それが幼い頃であれば当然なのですが、そこには人生に纏わる深刻な思い悩みというものはありません。
先の思考の絡まりあいとは、真逆とも言える様態ながらも"生の実感"が希薄になっているのは同じなのです。
そこには、思考に基づく苦悩というものは無いが、もっと根本的な混乱に晒されているとも言えるのです。"何でもいい、依り掛かれるものが無ければどうにかなりそう"だったのです。
どっちにしてもそこには喜び、幸福というものは感じられないのです。
それは"私はここにある"という意識と共にもたらされる...これは特別な精神の道に関心は向けられていなくとも、誰しもがそう意識されずして経験していることでしょう。
そして、よりいっそう生の幸福、充足"を覚える時というのは、"我を忘れている時"なのではないでしょうか?
何度か触れているように、"自分が自分で居られる"ことというのは、思われた、チッポケな自分には求められないのです。
ノンデュアリティの台頭には、思われた自我というアイデンティティの崩壊といった背景があると思われます。
これは、それにとどまらず、あらゆる"そうだとされる"機構、体制というもの、思われた世界(それがとりもなおさず自我の総体といったものでしょう)のなし崩しの崩壊を物語るものでしょう。
しかし、我々の個我というものは、空無、根源的全体といったものに帰され、熔解されてしまうものなのでしょうか?
個我は有るか、無いかどっちかしかないのでしょうか? 
成る程個我的思いというものは苦悩の種であり、多くの非二元の教師たちは、仇敵のように永久に葬り去りたい気持ちに駈られるのでしょう。
だが、それは真の自分への、自分たらしめているものへの、この生の因って来るものへの裏切り以外の何物でもありません。
ここに存しているものは、個人というものが有るのか、無いのかということでなく、そうした決めつけた言説にトラワレることでなく、我々は本当には自分というものも、神と言われるものも分かっていなかった...否、そのものが我々に示現してこなかった...ということを告げているのでしょう。
ノンデュアリティの流行は、この生にあってある時節の到来の兆候を示しているものではあると思います。
思われた自己、世界の崩壊から顕現してくるものによってこそ初めて我々は自己、世界を目の当たりにするのでしょう。
それは他の誰でもない私とあなた自身の問題なのですi

コメント
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