人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

この人を見るな

2018-03-13 17:51:19 | 人生の裏側の図書室
「我らはツアラトウストラを信じるとお前たちは言うのだな? だがツアラトウストラに何ほどのことがあるか?...さあ、私はお前たちに命令する。私を失え、そしてお前たち自身を見つけ出せ、と。お前たちがみな私を拒みおおせた時、その時初めて、私はお前たちの所へと帰って行こう...」(F.ニーチェ「この人を見よ」/岩波文庫、ちくま学芸文庫他)

ニーチェは何度となく読んできましたが、この自叙伝は初めてでした。これは最初に読むべきであったか、最後にとっておくべきだったか...まあ、これまで私はこの何かと誤解の多い預言者のさほど熱心な読者ではなかったのは確かです。
しかし、これはとにかく文句なく面白いi
「何故、私はこんなに賢明なのか...何故、こんなに良い本を書くのか...」
もう、目次を見ただけで吹き出してしまいました。決して笑えるような本ではないですが、こうした経験は、約30年前、ドストエフスキーの「地下生活者の手記」を読んで以来かと思います。
人間、あまりにも自分と同じ像を目の当たりにすると笑うしかないのかもしれません。
一読して分かるように、ニーチェはドストエフスキーに負けず劣らず我意の強い人間です。
だが...本当に我の強い人間で、なおかつその弱点を自覚している人間は、こんなにもあからさまな、誇大な自己賛美の表明などするものでしょうか?(少なくとも私はそうしない?)「地下生活者」とか、ラスコーリニコフ、イワン.カラマーゾフなどの自己の分身に託するものではないですか?
ニーチェには、その託身される対象として「ツアラトウストラ」が与えられていたのではなかったか?
もう、ここにはあのニヒリズムの権化のご託宣も、ニーチェその人のそれも区別がつきません。そこにこの書が世に出た直後、彼の精神が昏やみに陥ってしまった要因があったのでしょうか?
ニーチェは、妹のエリザベートの目論見から自分の意向に反して、偶像に祭り上げられてしまうことになりましたが、これが不幸にもヒトラー=ナチズムに歪曲され、利用されてしまいました。
「私はドイツ人というこの種族には我慢出来ない。どうしてもうまが合わない」
「私の性分は誰にでも柔和で親切であることをのぞむー私には差別を立てない一つの権利があるー」
彼には国家主義も民族主義も、権力の行使とも無縁だったのです。一時ワーグナーに心酔していましたが、ドイツ的なものから離れることから訣別したのにも関わらず...こんなヒドイ歪曲はありません。
彼の説く超人とは、誰に対してもフツーに接することの出来る人間の逆説にも思えます。
推測ですが、彼はその自身の実像が歪められることを見越して、この書で逆説的に虚像を演じていたのではなかったでしょうか?
ただ、随所にその制御しきれない、我意を表さずにおれない血の衝動というものも濃厚に感じられはしますが...私にもそういう血が流れていて、どうもハートの裏側の辺りがムズムズしてきそうですi

ああ、私も慎みを弁えた人間の仮面をかなぐり捨てて、「凡庸であることは、罪だi 悪だi、"そうであること"など十字架にかけて超人に生まれ変われi」と叫んでみたいi
この人という人間に託してでも...
しかし、"この人"というのは..."居ないi、見えないi"

行く果ては自壊する運命しかない、我意の強い人間は、"この人"という見える人間によっては決して救われないのです。
この人を見てはいけないんです。
自己の対象としてこの人を偶像にしてしまうか、自己を偶像にしてしまうでしょう。
それでも"この人"を求め、すがり続けなくてはならない...そこで救世主なる"この人"は...
"見えない虚像"として臨んでくるのです。
このニーチェその人の言葉として書かれた本には、見える"この人"とその向こうにあるものとが交錯しています。
ニーチェは、精神のカオスの中で何を見たのでしょうか?
答えは黙されたままだったのでしょうか?...
コメント
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