人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

天国へは独りでは入れない

2018-03-17 16:28:39 | スピリチュアル
近年、日本でも注目されている「奇跡講座」という、スピ系の指導体系に「天国へは独りでは入れない」という言葉があります。
私はあまり関心がないので("毎日の日課のようなもの、やらなければならんのかなあ"と、講座と聞いただけで堅苦しさを覚えてしまいます)、それは、その詳しい意味は分からないのですが、この体系自体が単独の人間のみによっては、生み出されなかったことと関連付けられているようです。
そもそもこの天国と言われるもので想起されるもの...普遍、調和世界であれ、神の国であれ、自分独りだけの世界というものを想像出来るでしょうか? 
自分しか居なくて普遍も調和もあったものじゃないですね。
それは世界、国...何らかの他とあるものを共有しているスペースなのです。
その門は確かに文字通り、自分以外の他者との共同によってしか開かれないものと私も強く感じています。その意味しているものは、一様ではないですが...
特にそれが、この見たままの現実世界に開かれた場合、その時空間を共有しているパートナー(二人以上)の存在抜きにはあり得ません。
(自分以外に一人さえ居れば、この地上に天国、神の国が...少なくともその雛形は実現するのですi)
その相手は必ずしも、その幸福な時空の共有を自覚しているとは限らないものですが、その開示は、どちらかからの一方通行でない、自他を一つにハタラクものによるものと言えるでしょう。
では、何らかの理由で物理的に単独であること(私など大体そのクチ)を余儀なくされているような人には、その天国的なものは開かれないのでしょうか?
そんなことはないでしょう。まず、その他者とは人間とは限りません。私は野良猫"ペロちゃん"と幸福な時空間を共有したことがあります。
そして...これは前記したものとは、違う意味で、多くの精神的目覚めに預かった人が"そんなことない"ことに同調するであろうことですが、物理的に単独でもそういうことは起きることです。
でも、私はその場合においても、他者との共同無くしては開かれず、その至福の共有も無いと思います。
見えざる導師の協力無くしてどうして、それに預かることなど出来得ようかi
それは自己の力を超えたハタラキなのだから、当然なのは言うまでも無いですが、私は又、上から協力を求められていることも感じています。
これはその現実世界への応現と関係していると思われますが、見えざる領域と見える領域との協調、呼応関係によって起きるものと言えるでしょう。
そこに最近の悟り系教師が、"全体しかない"と説いていることに違和感を感じてしまうのです。
何らかの関係性が欠落していては、何も起きず、始まらず、開かれないのです。
又、あるメソッドに従い、それに乗っ取って修行した結果それに預かった、というムキもあるでしょうが、そうしたものがある因子にはなり得たとしても、決定的な契機は自己を超えた他者との関わりにあるものでしょう。
(それで、ある意識の変容のようなことがあったとしても、至福の共有とは全く異質のものでしょう)
私は上記で、天国的時空間のことを一般に客観的、主観的とされる二つの観点で述べてみましたが、それらにどっちかが現実で、どっちかが幻想と決めつけることは出来ないでしょう。
自己に帰結してしまう主観あるいは、自己から離れた客観的世界しかない、という偏った観方自体が幻想と言うべきです。
この二つのことは元々切り離されないものであり、天国的な世界の実現とは、この主客の分離からの回復に他ならないでしょう。
このこと自体が、見えないものと、見えるものとの共同ということなのでしょう。




コメント
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