「主は未だ来ておられない。何故なら世界は依然として同じままだから」
(ハシディズムの導師ラビ.メンデル)
魂の願望とか言います。
魂というものがどういうものかは分かりませんが、この思われた自分より深い部分の、"本当の自分"といったもので想起されるものからの願望と言ったら...もう、この事をおいて他にはあり得ませんi この事..."ううーん...な、何だろう?"
私にはハッキリとあります。だって魂らしきものというのは、この内に根付き、うずいているものを感じていることでアリアリと分かるんですから...
こんなにも書いている端からジンジン、ビンビンと感じていると言うのに、言葉に言い表せないもどかしさよ...こんなにも私自身の願い、望みというのは他には無いというのに...
思い付くままに言葉にしてみたら、何かが伝わるかしら?
真我の実現、神の国の実現、神の顕現、メシアの来臨、私のすべての成就...
実現とか顕現ということで表現されているものは、"ここ"...地上の現実に何かが現れ出でることを表しています。
そして私個人が如何に例えば、"神を見た"、とか"真我が実現された"、とか"悟った"とか"救われた"とか言おうと、それは未だに実現されていないのですi むろん、他の如何なる覚者、聖者から同じことが発せられても同じことです。
"悟った個人など居ない"とはいつも言っていることですが、未だかつてそんな人は居なかったし、誰も救われてなど居ないのではありませんか? 何故ならば..."世界は依然として同じままだから..."
私はかく宣うことで、所謂非二元論とは訣別せざるを得ません。
私は物心付いた頃からずっと神の国を、メシアを待望していたのですi
私の中のことも、外のことも等しく"我が主"に満たされなければ、決して我が魂は充たされず、我が主の時も来ないのですi
私にも、極めて当たり前のことながら、人並みに個人的な願望というものはあります。
諸々の願望というのは、実現することもあれば、叶わないこともあります。しかし、この魂からの根っからの願望無しには、実現しようと、しまいと意味などありません。この私自身が実現しないのですから...
私は私自身の実存について、その片鱗は垣間見ている...しかし、それはどこまでも方ちんばなものに過ぎないのです。
世界のあるべき姿、自然調和の世界というものも垣間見ている...しかし、それはどこまでも原像のようなものであって、"焼き直し"されたものではないのです。
"世界とはフィルムみたいなもので、実在しない、幻想に過ぎない"と言いたいムキは、ずっと無人島か洞窟に籠っていたら、永遠に虚無のうちに溶け去ってしまったらいいでしょう。
私は、そう...この幻想に満ちた、救いようの無い現つの世界のまっただ中に、我が主がこの私にアリアリと現臨したように、主のみ国として開かれることを目の当たりにしたい...その望みをもってこの世に生まれ出でたのではなかったか?
ここに現れ出ているということ自体が、そういうことなのではあるまいか?
そして、私は確かに我が主の望み、願望を聞いたのですi
"私は、お前の世界のまっただ中に私自らを現わそう..."
主の望みは我が望み...ただ、そのご自体なるものの顕現に合わされていくのみ...
これはただの希望、願望と思ってはいけません。
今現にこうして現臨してくるのを身に覚えながら、これを書かされているのです。
未来のことは、現在と全く一枚のことなのです。
(ハシディズムの導師ラビ.メンデル)
魂の願望とか言います。
魂というものがどういうものかは分かりませんが、この思われた自分より深い部分の、"本当の自分"といったもので想起されるものからの願望と言ったら...もう、この事をおいて他にはあり得ませんi この事..."ううーん...な、何だろう?"
私にはハッキリとあります。だって魂らしきものというのは、この内に根付き、うずいているものを感じていることでアリアリと分かるんですから...
こんなにも書いている端からジンジン、ビンビンと感じていると言うのに、言葉に言い表せないもどかしさよ...こんなにも私自身の願い、望みというのは他には無いというのに...
思い付くままに言葉にしてみたら、何かが伝わるかしら?
真我の実現、神の国の実現、神の顕現、メシアの来臨、私のすべての成就...
実現とか顕現ということで表現されているものは、"ここ"...地上の現実に何かが現れ出でることを表しています。
そして私個人が如何に例えば、"神を見た"、とか"真我が実現された"、とか"悟った"とか"救われた"とか言おうと、それは未だに実現されていないのですi むろん、他の如何なる覚者、聖者から同じことが発せられても同じことです。
"悟った個人など居ない"とはいつも言っていることですが、未だかつてそんな人は居なかったし、誰も救われてなど居ないのではありませんか? 何故ならば..."世界は依然として同じままだから..."
私はかく宣うことで、所謂非二元論とは訣別せざるを得ません。
私は物心付いた頃からずっと神の国を、メシアを待望していたのですi
私の中のことも、外のことも等しく"我が主"に満たされなければ、決して我が魂は充たされず、我が主の時も来ないのですi
私にも、極めて当たり前のことながら、人並みに個人的な願望というものはあります。
諸々の願望というのは、実現することもあれば、叶わないこともあります。しかし、この魂からの根っからの願望無しには、実現しようと、しまいと意味などありません。この私自身が実現しないのですから...
私は私自身の実存について、その片鱗は垣間見ている...しかし、それはどこまでも方ちんばなものに過ぎないのです。
世界のあるべき姿、自然調和の世界というものも垣間見ている...しかし、それはどこまでも原像のようなものであって、"焼き直し"されたものではないのです。
"世界とはフィルムみたいなもので、実在しない、幻想に過ぎない"と言いたいムキは、ずっと無人島か洞窟に籠っていたら、永遠に虚無のうちに溶け去ってしまったらいいでしょう。
私は、そう...この幻想に満ちた、救いようの無い現つの世界のまっただ中に、我が主がこの私にアリアリと現臨したように、主のみ国として開かれることを目の当たりにしたい...その望みをもってこの世に生まれ出でたのではなかったか?
ここに現れ出ているということ自体が、そういうことなのではあるまいか?
そして、私は確かに我が主の望み、願望を聞いたのですi
"私は、お前の世界のまっただ中に私自らを現わそう..."
主の望みは我が望み...ただ、そのご自体なるものの顕現に合わされていくのみ...
これはただの希望、願望と思ってはいけません。
今現にこうして現臨してくるのを身に覚えながら、これを書かされているのです。
未来のことは、現在と全く一枚のことなのです。