人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神が表に現れるとは?

2018-03-25 15:38:40 | 
このブログでは、「神が表に現れる」というような言葉でイメージされるようなものが基調になっていますが、それは文字通り神が目に見える形を伴って出現する、というようなことを伝えている訳では無いのです。
「神の国の実現」ということでも、例えば、自然回帰指向の強い人たちが夢想し勝ちな、このコンクリートで覆い尽くされた都会の雑踏が、お花畑のような世界に様変わりするようなこととは、全く関係の無いことであるのは言うまでもありません。
お花畑は、夢想する人間の頭の中にしか無いのです。(ひょっとして彼らの脳には、人類社会が一旦崩壊し、無に帰し、一から自然と一体化した原始的社会が思い描かれているのでしょうか?)
本質的なことは、我々の表層意識に、その内奥に隠れていた神的な意識が顕になる、ということです。
ただ、私がそこでこの見える地上に、その神的なものが表れる、ということを強調する場合、精神的覚醒といい、意識の変容といい、単なる一個人の主観として片付けられてしまうことから、一歩この現実世界に踏み出してしまうようなことについて言っているのです。
それは主観的な領域から、客観的なものへの転換という言い方も出来るのですが、これが先のような誤解を生むことにもなってしまうようです。
如何せん、これまで我々は、こうした消息についてほとんど理解されず、それを言い表すスベも持っていなかったのです。
悟りや覚醒というものは、内的な主観...そこからこの見える世界に転じられれば、外的客観...そこには完全なる二分化あるのみ...主観的我の世界と客観的世界とは、全く切り離されたままなのです。
多くの場合、その自分以外の誰にも理解されない、意識の変容に伴う至福の経験が、客観的社会に受け入れられる、ということは、その生のアリアリとした歓喜に満ちた事態は、冷えきり、一般大衆にアダプトされた、規格化されたものへと変質すること、つまり霊的生命の死を意味するものとなるのです。
このことは、ベルジャーエフが何度となく指摘していた通りです。
神的なハタラキが主観的世界を超えて、客観的世界に転換してくるとは、自分以外の他者とその霊的生命を共有することに他なりません。
言い換えるとその共有する場...霊的磁場が生まれるということです。
共有するということは、分離したように見える自己と他者には、元々根っこの方でつながったものがあることを示唆しているのでしょう。
かく宣うことで、私は所謂非二元論と同調せざるを得ません。(私が宣っているものほどアテにならないものはありませんi ただ、私はこの世に生を享けたことの意味をいつも感じているだけです)
この自己を超えてつながる他者には、その向こうにすべての他者とのつながりをも予感させるものです。
それが普遍調和世界の実現の予感をもたらすのです。
徐々にではありますが、このようなこれまでの主観的か客観的かという、二元的図式で取り込まれてしまう、思われたままの有り様から自他を一貫にハタラク主客の対立を超えた(これは思いを超えているということです)有り様が示されてきているようです。
これはどうしても、言葉や概念による理解が不可能なことがもどかしいことで、以心伝心に伝わるようなことなのです。
このことは、神の国の雛形たる原始キリスト教会ーエクレシアの玄義であり、ベルジャーエフは、それを終末に表れる全地普遍教会ーソボールノスチーと関連付けて説き、我が国でも大本など、メシアニックな神道でも弥勒の世を開くべく、雛形の仕組みが伝えられていたのです。
全く知られていないところでは、大調和協会なる団体にもハッキリと、その神的なものの顕現への情念が感じられました。
私は直接間接問わず、これらに関心が向かずにおれませんでした。
それはすべてが前述したように、全地に、普遍に開かれたものだったのです。
もし、そこに一つの団体、思想、信仰というものに閉じ籠ってしまう...そのような変節が生まれるとしたら、その機能は失うに至るでしょう。
私は、そうした過程も間近に接していて、私の内なるものと相容れないものを感じたことも度々ありました。
普遍性を指向するものに、時に排他的とも言える自己閉鎖的なものがもたげてくることほど、不思議なこと、又欺瞞はありません。
そこには私自身にも、普遍的なものに開かれていない心性を認めなければならないでしょう。
とにかく、思いというものが自他を、あの道、この道とを分断させてしまうものです。
それぞれの道に示されたものは、諸々の思いを越えることで、全一なるものへと開かれてくるでしょう。
見た目は変わらなくとも、見ている土台が夢想でない、普遍的な世界へと変容されるでしょう。
どこまでも我々は、思い超えたものに開かれていなければなりません。
否、我々をそのようにあらしめるものの、あらたかなるハタラキを覚えてこれを書いています。







コメント
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