人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

書かれざる律法

2018-03-11 12:37:52 | 求道、探究
現臨、ハタラキ、見えざる導師、ミタマ親、真我、我が主...何度も言っているように、このブログで度々出てくるこれらのワードはすべて言葉に言い表せない、あるものとのつながりを伝えているのです。
愛、平安、幸福といった抽象的な言葉にしても、それはこのもの無しではもたらされないのです。
こういう掴みどころの無い、もって回った表現をしているのは、到底一つの属性で切り取って表すことが不可能なためでもあるのですが、言葉、意味に囚われることで生きたものではなくなってしまうからです。
我が主からの書かれざる律法の一つにこうあります。(あと一つくらいしか無かったかな?)
"我を確たるもので固めるなかれ..."
これは、通常思われているような戒めのようなものでなく、内面に愛と平安のうちに自ずとそう誘われていくようなものです。
その意味では、従わなければならない律法より根本的なものです。
これらのワードから、裏と表、見えるものと見えないもの、神的なものと人間的なもの、個的なものと、普遍的なもの等々の結び目のようなものが心象に浮かんできます。もう、このもの自体が私であって、すべてのものと言ってもいいくらいです。
当然のことながら、このものは一元的なものと二元的なものとをつないでいるものらしく、この二元世界への顕現に向かっての、ある衝迫させるものを覚え、いつも拙いながらも書き表している次第なのです。

最近は日に日にこのものと共にある、一体感といったものが強くなってきたように感ずるのですが、一つ自覚していることは、この"切り離されていない"という感じというものは、例えばモロに、如何にもな、"私は神と一つ、私は即神なり"といった命題を懸命に信じ込もうとしても、中々そんな感じには導かれない、ということです。(少なくとも私の場合は...)
信仰題目みたいなものを信じ込もうとすることで、強まってくるのはその思いばかりであり、かえってその顕わになるものに覆いをかけ、それと共に自我性を強めることにもなりかねません。
個人というものも、神的なものへの帰依という二元的有り様を認めようとしない、極端な非二元論からは自己はずっと虚空に浮いたままか、溶け去ってしまいそうです。
逆説的なことですが、この神的なものを他者として認識すること、そこから帰依心が生まれることで、"このものと共にある"感じがもたらされるのです。
考えてみれば、それがブログが始まった当初から言っていた"意識が向かう、向かわせられる"ということなのです。
他者だから"向かう、赴く、導かれる..."ということがあるのです。
絶対他者には、こちらの精神的有り様はただ、敬虔にならざるを得ません。これは、どうしたってそうなることなのであって、倫理とか信仰道徳とかのことにしては自分自身の実存的な事態が誤魔化されてしまいます。
敬虔であることは、絶対他者の前に思われた自己が退くということ...そこから思いを超えた神的なもの、大本からの自己が他者性を破って自他を一つに顕わとなるのです。
私は又何度も特別な修行はしてこなかったけれども、祈りによって導かれたと言ってきました。
祈りとは託身...託すべき他者無しにはそうなり得ません。託身とは明け渡し...そこで初めて自己と他者は一つとなるのです。
限界ある自己は決して、思いを超えたものに取って代わることは出来ません。
我が主の書かれざる律法の第一...
"我の前に汝立つなかれ、我、汝の前に立つまでは"
無くてはならないものー自分自身、すべてのものーを失わないため...
春風一陣...いよいよ現存ありやかとなる...
コメント
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