元波動瞑想という実にシンプルな瞑想を指導しておられるK先生によれば、人には大まかに言って"感"、"知"、"現"という三つの波動があり、大体誰でもそのいずれかの波動が優勢にハタライているのだそうです。
前の二つは、イメージしやすいように、それぞれその人の感性、知性として波動が表されるということですが、現の波動というのは、身体性と共に、現象化と関わりがあるそうです。この波動が強い人というのは、物事が実現しやすいようです。
(以前は確か"肉の波動"と呼ばれていたのですが、"肉欲が強い"とか変に誤解されるなどクレームがあって変えられたのです)
通常、この瞑想の会の人たちは、K先生との個人面談の際に、その人の優勢な波動について指摘があり、弱い波動はより伸ばして、三つのバランスを生かすようにするといった、指針が与えられるのです。
"して、あなたの場合は..."
私の場合、先生から言われなくてもずっと自覚していました。先生からも即答です。"カン"で分かろうというものです。
"では一番弱いのは..."、これは一寸以外でした。"知の波動が弱いですi"
"やはり、バカだったのか、オレはi"
私自身はフィジカルな面もあまり恵まれてないし、物事を実現化させようとする力も乏しいものがある(一方では勝手に実現化するものもあります)、とずっと感じていたのですが...
この場合、知性というものが、例えば論理的思考といったことと結びつけられるものとしたら、もう、テンデあきませんi バカなのですi
頭で構築されるようなものは、感情でぶっ壊すに限りますi (理屈なんかで物事が決まってたまるかってんだi)
ただ、このように元々知性的部分が弱いので、知性があるように懸命に見せかけようとするフシは確かにあります。
何にせよ、弱い部分というのは、それだけ意識が向けられていない、向けようとしても何かスーと通って行かないものがある、というのは感じています。
このいつも私が言っている、"意識を向ける"とか"意識的になる"ということですが、前記したこととは違う意味で、負け惜しみ?でなく、私なりには"知的なこと"と感じているのですが...
知的にカンガエルということは、アレコレ思考を巡らし、理論を組み立てていくようなことで無しに、意識をむしろそれを超えた、知性以前の根源的知性、理性、悟性(古代ギリシア哲学で"ヌース"と呼ばれるものか?)照明に預かることなのではないでしょうか?
これが、所謂知性がぶっ飛んだ、"感性哲学"につながるんでしょうか?
私には物心ついた時からこのように、知性と感性というのは、分けられないもののように"感じてきた"のです。
知性といっても、それは世の人がそう言っている知性よりもずっと感性が優勢なのです。
いつも論理が破綻して、バカみたいになっているのは、自分でそれで善しとしているからでしょう。(7=3で感性が勝ってこそ、ちょうどいいんじゃないだろうか?)
では"現"の方はって言うと...もう、体はアチコチ、ガタが来ていて、こればかりはトシなんでしょうがないものがあります。
現象化という面では、意識が向けられているものは、放っておいても実現したりします。又、自ずとそういう方に赴かされたりするのです。
ただ、ずっと強く望んでいることはあるけれども、どっかにブロックがあるようで、意識が通って行かないものがあったり、そこんところに意識を向けていくのが課題かな、と...感じているところです。
結局、波動というのは、意識と深く関わっているようです。よく考えてみれば、ジンジンといつも意識されていることなのでした。
前の二つは、イメージしやすいように、それぞれその人の感性、知性として波動が表されるということですが、現の波動というのは、身体性と共に、現象化と関わりがあるそうです。この波動が強い人というのは、物事が実現しやすいようです。
(以前は確か"肉の波動"と呼ばれていたのですが、"肉欲が強い"とか変に誤解されるなどクレームがあって変えられたのです)
通常、この瞑想の会の人たちは、K先生との個人面談の際に、その人の優勢な波動について指摘があり、弱い波動はより伸ばして、三つのバランスを生かすようにするといった、指針が与えられるのです。
"して、あなたの場合は..."
私の場合、先生から言われなくてもずっと自覚していました。先生からも即答です。"カン"で分かろうというものです。
"では一番弱いのは..."、これは一寸以外でした。"知の波動が弱いですi"
"やはり、バカだったのか、オレはi"
私自身はフィジカルな面もあまり恵まれてないし、物事を実現化させようとする力も乏しいものがある(一方では勝手に実現化するものもあります)、とずっと感じていたのですが...
この場合、知性というものが、例えば論理的思考といったことと結びつけられるものとしたら、もう、テンデあきませんi バカなのですi
頭で構築されるようなものは、感情でぶっ壊すに限りますi (理屈なんかで物事が決まってたまるかってんだi)
ただ、このように元々知性的部分が弱いので、知性があるように懸命に見せかけようとするフシは確かにあります。
何にせよ、弱い部分というのは、それだけ意識が向けられていない、向けようとしても何かスーと通って行かないものがある、というのは感じています。
このいつも私が言っている、"意識を向ける"とか"意識的になる"ということですが、前記したこととは違う意味で、負け惜しみ?でなく、私なりには"知的なこと"と感じているのですが...
知的にカンガエルということは、アレコレ思考を巡らし、理論を組み立てていくようなことで無しに、意識をむしろそれを超えた、知性以前の根源的知性、理性、悟性(古代ギリシア哲学で"ヌース"と呼ばれるものか?)照明に預かることなのではないでしょうか?
これが、所謂知性がぶっ飛んだ、"感性哲学"につながるんでしょうか?
私には物心ついた時からこのように、知性と感性というのは、分けられないもののように"感じてきた"のです。
知性といっても、それは世の人がそう言っている知性よりもずっと感性が優勢なのです。
いつも論理が破綻して、バカみたいになっているのは、自分でそれで善しとしているからでしょう。(7=3で感性が勝ってこそ、ちょうどいいんじゃないだろうか?)
では"現"の方はって言うと...もう、体はアチコチ、ガタが来ていて、こればかりはトシなんでしょうがないものがあります。
現象化という面では、意識が向けられているものは、放っておいても実現したりします。又、自ずとそういう方に赴かされたりするのです。
ただ、ずっと強く望んでいることはあるけれども、どっかにブロックがあるようで、意識が通って行かないものがあったり、そこんところに意識を向けていくのが課題かな、と...感じているところです。
結局、波動というのは、意識と深く関わっているようです。よく考えてみれば、ジンジンといつも意識されていることなのでした。