人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

最大のタブー

2018-06-02 12:27:15 | スピリチュアル?
わが見えざる宗門、導師の書かれざる教えというのは、他では絶対に与ることの出来ない独一無二のものです。
"他には無いのであるi"
でも、それは"この教え以上のものは無いi"という意味では全くありません。
わが導師の書かれざる律法では、そうした相対的優劣観に囚われた在り方というものは最大のタブーなのです。
そもそも、そうしたトラワレをもってしてはわが道は開かれようハズも無いのです。
トラワレてしまったら、その門は閉ざされてしまう...故に最大のタブーなのです。
私がこれまで縁のあったいくつかの"見える"宗門では、しばしばそうした独善的な言葉も聞かれました。
私はもう生理的に受け付けることが出来ません。全身心が塞がったようになり、そうしたことを考えることも感じることも出来なくなります。
"ここが他の如何なるものにも秀でたところで..."、もう、いいi 何もかもが分裂しそう...
"最近では全体と離れた個がある"ということを指して分離思考と言ったりするらしいですが、本当にその最たるものとはこうしたものでしょう。
そこに強く感じるものは、宗教的依存、狂信...ある有機体から切り離された、どこにも根っこ、つながりというものを見出だせない、遊離した強固な思念といったものです。
ここで有機体と言うことで、示唆しているものは抽象的全体と言うよりも、普遍性と結び付いた、具体的な生きた個、人格です。
従って、そこから切り離された言葉には生きたものが少しも伝わってきません。
これでは、いつまで経っても人生の裏側は開かれることも、真我に目覚めることもありません。
何故ならば、思考をそこに持ち込むことは出来ないからです...拘っているもの、手に握りしめているものは手放さなければならないのです。
"この教えが最高のもの"ということは、頭でそう思い込んでいるだけなのです。
その思いが頑なであるほど、その人にとって最善のものが、訪れることは無くなるでしょう。
最善のものとは、どっちが上も下もない、相対に絶したもので、自分の思いを超えたものです。
それは又、その人格の奥にあるものと別のものでは無いでしょう。
そこから切り離された思念に囚われ続ければ、ますますそれから遠退くばかりです。
最善のものがもたらされる道が閉ざされるという、もっとも不幸な事態に陥るとは、最大のタブーと言わずして何であろう...
おまけに熱心に他に向けて"これ以上の教えは無いんですよ~"と要らんプロバガンダに余念がありません。
最善のものは一人一人に開かれるものであり、何がそうであるかは一人一人の魂が、見えざる導師が知っているハズのものです。
何年も何年も堂々巡りの、おバカなことを繰り返していたら、フツーはその不都合なこと、バカバカしさに気付くものなのですが...
道が開かれるのは、気付き次第、気付くこと自体が開かれることです。
"自分が何年も手に握りしめていたものは、すべてその方便だったのかもしれない..."
しかし...エゴをくすぐらずにおれない、甘い言葉の周辺には常識はずれな何かが漂う...
結局、元の鞘に戻っただけ(?)"
時には、最善のものというのは、手に握りしめていた"この上ないもの"の中にあった、という気付きもあるかも分かりません。
その場合は、事の優劣といった相対観は消えて、その一つとして表されたものに、すべてで一つの普遍的なものが開かれる...かもしれません。
どっち道気付かなければ開かれませんi どこまでも全一のものに開かれていなければならないのですi
それは自分自身が開かれることに他なりません。それは他には代えることの出来ない、独一無二のものです。
だから...その道を閉ざすことは、最大のタブーなのですi






コメント
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