ドラマ「相棒」の右京さんは、真実を追求してやむことがありません。
私情を交えることなく、どこまでも妥協することなく追求して行きます。とっくに時効になってる事件でさえも...
一体何が彼をそこまで掻き立てるのでしょうか? 警察官としての使命感だけでは無さそうです。
現実においても、科学的真理の研究者は客観的真理に、哲学者は理念上の真理の追求に、時間を惜しまず没頭している者も居ることでしょう。
それが解明されたとしても、絶対的なものだという保証などありません。
別のところで新たな真実が明かされて、覆ることだってあります。
それでも彼らは本当のことを追及してやまない...何の得があって? それで果たして幸福なのか?
彼らの脳裏には"この世に絶対的真理などないi"ということは、それなりに認識されているのでしょうが、どこかにある"絶対に"そこにギリギリまで迫れる一点というものが見据えられているのでは無いでしょうか?
それは精根傾けて考え抜き、その遂行を重ねることの限界点なのかも分かりません。
そっから先は神の領域なのでしょうか? 絶対なるものへの飽くなき挑戦...(そこへたどり着くまでは安易な妥協、迎合など決して許されないのですよッi...ブルブルブルッ...血管が切れそう)
絶対的な人間など居ないのだから、絶対に真実のことが何なのか分かろうハズも無いのでしょうが、そこから想起されてくるものは、何となく掠めて来ないでしょうか?
その一つは、"疑うことの出来ない"というものではないでしょうか? 疑うことが出来ないものは、"そーなっている"としか言いようがありません。否定することも出来ないのです!
疑うことも、否定することも当たり前のように、"そーなっている"この世では、あまり実感が湧かないかもしれませんが...それは"すべてが肯定、ポジティブ、ハッピーi..."と浮かれてるようなことを思い浮かべられるでしょうか?
それは確かに幸福なことには違いないのでしょうが、私には限りなく"すべては疑い、否定、無意味、幸せも何んも無い..."ことの裏返しのように感じられて仕方ありません。
受かれてる裏では、ネガティブなことが"否定されている"のではないか?
つまり、肯定と否定があるということ自体、相対的なことである訳で絶対的なものとは言えないでしょう。
私は今、こんな風に肯定的なこと、否定的なことを思い描いて言っているのですが、本当に疑うことが出来ないことは、もはや思うことが出来ません。思う以前にそーなっているんですから...
それは思うことも、行うことも、意志することも出来ない...すべての"DO"は終わるのです。ゆだねるしか出来ません。
真理、真実を求めてやまない人というのは、意識する、しないに関わらずこのポイントに向けての"DO SOMETHING"に駈られるものがあるようです。
そして、その先には、この世では与ることの出来ないような、絶対的幸福とも言うべきものが...あるのかもしれません。
でなきゃ、いつまでも"細かいことが気になって仕方が無い悪いクセ"などどうでもいいから、行きつけの料亭で、つかの間の幸福に浸ってたらいいってもんじゃないかi
又そうでなきゃ...ホントにヒマなんだろう...。
私情を交えることなく、どこまでも妥協することなく追求して行きます。とっくに時効になってる事件でさえも...
一体何が彼をそこまで掻き立てるのでしょうか? 警察官としての使命感だけでは無さそうです。
現実においても、科学的真理の研究者は客観的真理に、哲学者は理念上の真理の追求に、時間を惜しまず没頭している者も居ることでしょう。
それが解明されたとしても、絶対的なものだという保証などありません。
別のところで新たな真実が明かされて、覆ることだってあります。
それでも彼らは本当のことを追及してやまない...何の得があって? それで果たして幸福なのか?
彼らの脳裏には"この世に絶対的真理などないi"ということは、それなりに認識されているのでしょうが、どこかにある"絶対に"そこにギリギリまで迫れる一点というものが見据えられているのでは無いでしょうか?
それは精根傾けて考え抜き、その遂行を重ねることの限界点なのかも分かりません。
そっから先は神の領域なのでしょうか? 絶対なるものへの飽くなき挑戦...(そこへたどり着くまでは安易な妥協、迎合など決して許されないのですよッi...ブルブルブルッ...血管が切れそう)
絶対的な人間など居ないのだから、絶対に真実のことが何なのか分かろうハズも無いのでしょうが、そこから想起されてくるものは、何となく掠めて来ないでしょうか?
その一つは、"疑うことの出来ない"というものではないでしょうか? 疑うことが出来ないものは、"そーなっている"としか言いようがありません。否定することも出来ないのです!
疑うことも、否定することも当たり前のように、"そーなっている"この世では、あまり実感が湧かないかもしれませんが...それは"すべてが肯定、ポジティブ、ハッピーi..."と浮かれてるようなことを思い浮かべられるでしょうか?
それは確かに幸福なことには違いないのでしょうが、私には限りなく"すべては疑い、否定、無意味、幸せも何んも無い..."ことの裏返しのように感じられて仕方ありません。
受かれてる裏では、ネガティブなことが"否定されている"のではないか?
つまり、肯定と否定があるということ自体、相対的なことである訳で絶対的なものとは言えないでしょう。
私は今、こんな風に肯定的なこと、否定的なことを思い描いて言っているのですが、本当に疑うことが出来ないことは、もはや思うことが出来ません。思う以前にそーなっているんですから...
それは思うことも、行うことも、意志することも出来ない...すべての"DO"は終わるのです。ゆだねるしか出来ません。
真理、真実を求めてやまない人というのは、意識する、しないに関わらずこのポイントに向けての"DO SOMETHING"に駈られるものがあるようです。
そして、その先には、この世では与ることの出来ないような、絶対的幸福とも言うべきものが...あるのかもしれません。
でなきゃ、いつまでも"細かいことが気になって仕方が無い悪いクセ"などどうでもいいから、行きつけの料亭で、つかの間の幸福に浸ってたらいいってもんじゃないかi
又そうでなきゃ...ホントにヒマなんだろう...。