人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の教師と見えざる導師⑤

2018-06-09 12:49:46 | 人生の教師
ラマナ.マハルシは、既に肉体から離れてしまって久しいのですが、生前彼自身が何度となく導師は肉体に限定されるものでなく、偏在し、内在しているものだ、と説いていたままに、信奉者の間ではその臨在によって恩寵、導きに預かったとか、内なる真我として息づいている、という話はしばしば聞かれるところです。
これは五井先生が「私の本体は直霊(神直々の分霊。真我の神道的な表現)であり、その直霊である五井先生は、皆の直霊と一つなんだよ」と述べていたことと通うものがあると思われます。
サンダー.シングなどは、主キリストの臨在、霊導といったことは日常茶飯事だったようです。
これとは一寸異なりますが、出口王仁三郎師亡き後、いくつかの"大本裏神業"と言われるものを指導したのは、多く"見えざる王仁師"だった、という話も聞いています。
こういう事例については、それは例えば"師がアストラル体として、霊身として顕現したのだ"とか、"神がかったのだ"とか余計な詮索、決めつけは不要でしょう。本当のところは考えても分からないことなのです。
これはしかし、一つの宗教、スピの関連団体だけにとどまるような問題なのでしょうか?
例えばラマナに縁のある者にとって、そういうことはその人の色合いで語られるまでで、そうでない人にはどうでもいいことでしょう。
しかし...このマスターである誰それというのは、そのように相対的に観られ、感じられるものではあるけれど、その偏在せる、内在せるマスターの臨在の実感というものは、等しくその人自身に揺るがない確信となるものとなるに違いないでしょう。
それは真我の実現と結び付いているものなのだから...
頭の中で色々空想するのは、それまでのことであって、その思いを超えた偏在、内在にある、ということが肝心なのです。
この事自体には、既に相対観というものは超えられています。
上記のことは"見える導師"の縁によって、見えざる領域に導かれたことを物語っていると言えるでしょう。
如何なる人間であっても、導師、聖者と言われる人物であっても、生身をもっている以上、完全などということはあり得ず、相対的な要素を受けている訳で、クセとか短所とか人間的限界があることは認めねばならないでしょう。
その置かれた位置、時代の制約というものも受けているのです。
しかし..."見える導師"から"見えざる導師"へと遷化?したならば、相対的限界は止揚されてしまうものでしょう。
例えば、生前一宗派の教祖だったある人物は、その諸々の相対的制約下で、方便として相対的に受け取られる教えを説いていたかもしれないけれど、その形なき、見えざる教えからは、表向きのそういうものは消え失せ、その方便に内包されていた普遍性に通じたものが示される...かもしれない。
その縁ある者は、形骸と化した教えを墨守するばかりで、その奥に隠れた"記せざる教え"を見据えて行かなければ、その師の残した道は生きたものではなくなってしまうでしょう。
いや、生ける縁ならば別の形で、別の新たなる縁の者に縁付く...かもしれない。

私は何度も書いているように、特定の"見える導師"を信奉していた訳ではなく、真に導師として実感されたのは、"見えない存在"なのでした。
しかし、その"記せざる教え"には縁のあった人生の教師たちのそれぞれの教えは形を超えて、その内包されていたものが、一つに溶け込んでいた如く感じられたのでした。(それは又その私の縁だけにとどまらない普遍性に通じているのですが...)
私が"見えざる導師"として言い表しているものには、そういうものが交響しているのです。

コメント
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