人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

万人による、万人のための祈り

2018-06-10 12:31:28 | 祈りと瞑想
私は押し付けがましいこと、差し出がましいことをされることも、することもキライなんです。
自由であることが何よりも尊ばれるべきものと思っています。
この意味で、"こうすれば必ず悟れる、世界を救える..."といった、宗教やスピ界に溢れているこの種の独り善がり、エゴ性丸出しの教えやら方法やらには、ホントに辟易とさせられます。
祈りというものでも"OOの祈り"という、本来大乗的な理念のもとに示されたものでも、その周辺の上記したような思念が取り巻かれることによって歪められ、曇らされてしまうのです。
これはどっかで祈りというものは"自分が祈るもの"という思いが根強くあって、そこから"祈らなければならない"、"自分が祈って世を救わねば"と、そのたぎるような思いにトラワレてしまうからでしょう。これで"ホコリ"が積み重ねられてゆくのです。
"この祈りの文句でなければならない、既存のものはアカがついているので、新たに無上の祈りの文句を降ろそう"なんて...すっかり形にトラワレ、思念が思念を呼んでもう、アカまみれ...
「祈りは業生の自分がするんじゃない」とは五井先生の言葉ですが、こうしたトラワレはもう、業生そのままじゃありませんか?
"ああ、神よこの度し難い祈り地獄を救いたまえ"

自分自身にも周囲にも平安をもたらすのは、"自分が祈らなきゃあ"という念には無いのです。祈りの行自体がそれをもたらすのではありません。
自分を超えた、ひっきょう思いを超えた霊なるもの、現臨によるものなのです。
こういう表現は毎度のことながら掴み所がありませんね。
だけど、一度でも神であれ、ある聖者であれ、意識が向いて、自分の周りにも、内面にも言葉に言い表せない愛、平安に包まれた経験のある人なら説明は要らないでしょう。
現臨それ自体は、言葉による説明が困難なものであり、特定の名前も持たず、相対性を超えているものです。しかし、そうした帰依者たちは、各々の信奉する"聖なる名"で表される、その個別的な仮現を通して、相対を超えた愛と平安に与っているのでしょう。
こうした在り方として、日本人の我々に馴染みがあるのは、浄土系仏教の念仏ですね。
阿弥陀如来に最も聖なるもの、最愛なるものを見出だした帰依者にとっては、それが無上の祈りなのでしょう。
それでしたら、我々一人一人にそれぞれ異なる"御名"、"御本尊"というものがあって然るべきではないでしょうか?
"これ以外にない、これ以上のものはない"と他に発信してしまうことが救いようのない、世迷い事の始めなのです。
それは一人一人に与えられているものであり、その自覚さえあれば数多の異なる無上のものも受け入れられるハズです。
"どんな祈りが一番効き目があるかだとお...そんなもの自分の最も聖なる、最愛なるものへの祈りに決まっているではないかi"
このブログを読まれる皆さんだけでも、それが10万人でも一人でも...あなたが最も愛してやまないもの(それはどんな神でもOO先生でも、宗教的でない人には、そういうものでなくても、架空のキャラクターでも、ペットでも何でもいいでしょう。ただし、他の言葉に迎合しないで、"最も愛してやまないもの"という点はズラしてはなりませんi)に向け、祈ってみませんか?
声に出して唱えるのも、沈黙するのも自由、やり方も...すべて自由なことが基調です。
とにかく無上のものに意識が向けられ、思いを超えたあるものが顕わになることが肝心なのです。
そして、各々の無上のものが共有されることでしょう。
これはごく個人的なことのようで、万人に向けられていることなのです。
デキアイでない、あなたと私の世界平和の実現がそこにある。

なーんて、多分初めて柄にも無く、差し出がましいことを書いてしまいました。これは、米朝会談のようにフツーでは無いことです。
私のようなフツーであってフツーでない人間にとって、フツー向きにアッピール出来るのは、こういうことなのかもしれません。

コメント
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