人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

そのものへの誘い

2018-06-21 17:19:06 | 意識、照明
このブログ記事のカテゴリーは、便宜的なものに過ぎないのですが、ただでさえ捉えにくい、この場を少しでも捉えやすくしようと、「現臨、ハタラキ」と「意識、照明」というカテを設けてみました。
そのワードの意味するところはテキトーであるのは言うまでもありません。
それでもそれらは、もうジッツにこの場では、エッセンシャル、基幹的なものだと勝手に思っています。
私自身が、こうして書いているうちに気付かされ、そして又こうして表されてきたものなのです。
もっとも、ずっと昔からそう言い表しているものを身に覚えていたのですが、表現してこなかった、出来なかった大きな理由は、言葉に表すことが困難だった、ということに尽きます。
ずっと読まれている方ならお分かりかと思いますが、例えば"現臨"、"ハタラキ"というものは、それだけを切り取って言い表し、理解されてしまうものでは全くあり得ません。その"意識"、"照明"というものと切り離されてあるものでは無いのです。
("照明"というのは、通常"観照"と言い慣わされているものですが、無為的に臨むものであり、自分で自分自身を観照するという人為的な在り方と区別してそう言っているのです)
そしてそれは神的なものであり、見えざる導きであり、自己そのものでもあるのです。
このようにつながり合っているものを、異なる表現で表しているのは、感じ方にある違いがあるだけです。
しかしそのいずれかのものとして限定してしまったら、生きた、リアルなその名状し難いものは伝わらなくなってしまうでしょう。
要するに、それはスピリチュアルそのものなのです。だから捉えにくく、訳がワカランものなのです。

改めてこの名状し難いものに"意識的になってみる"...
この世には数多の教えなり、メソッドなりがあります。
しかし、そのすべてはそっから先では持ち越すことが出来ません。
そのものに意識的になるとは、教えたり、教わったり、何かをやったりする一切が消えて、そのものになってしまうことなのだから...
"信じなければならないこと"や"こうしなければならないこと"があるのだと言う...
信じなくっても、それを目の当たりにしている...こうしなくてもそうなっている...
諸々の教えやメソッドが一つあっても、いくつあってもいいけど、すべてはそのものを指し示す方便...
そのものと共にあることとは、自己と別にある、何かのツールを携えるとかいうものがありません。
その自己と別にあるものに、自分を依存させてしまうということもありません。
"この教えが、メソッドが唯一無二のもの"
この自ら呪縛させている思いを手放さない限り、そのものが開かれることはありません。
そしてその呪縛を解くにも、そのものの道が開かれるにも方便など特に必要ありません。
自分にとって、ホンモノである、そのものに出会いたいという、その気さえあれば...
食堂に行って、いくらその食べ物について、食べ方について教わっても、食べようという気が無ければ、いつになってもその食べ物にありつくことが出来ません。ジッツに至極当たり前のことです。
食べようとする気が無ければ、どんなに目の前にご馳走が並べられてようと、模造サンプルと同じではないかi
その気になるということは、自ずと意識が向けられるということです。
それは、自分が愛して、惹かれてやまないものに出会ったら、全く説明など要らないことです。それはあまりにも自分に近すぎていて、多くの人には気が付かないものかもしれません...

意識的になることは、そのものへの誘い、導入口でもあり、そのものと共にあることでもあるのでしょう。
コメント
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