スピリチュアルというものの何たるか、ということも判然としないまま、言葉だけが一人歩きし、一文化として定着してしまった感のあるその界隈ですが、何度か触れているように、そこにはおおよそ二つの在り方があるように思われます。
ここではその言葉通り、霊というものについてですが、一つは例えば、前世とか、輪廻転生というものが在る...死後の世界、霊界というものがある、そこにはいくつか階層、レベルというものが在る...霊的存在とされるものには、成仏出来ない、迷える霊、邪霊と言われるもの、守護霊、聖霊などの高級霊などがある...
といった、所謂心霊学と言われる分野で説かれるようなものがあります。
当然のことながら、これらの事というのは、霊能力者とか特殊な人たち以外には確認のしようの無い事柄であり、それらを受け入れるということは、所与のものとして、前提として在るということを信じるしか無くなってしまうのです。
これは宗教的ドグマを盲目的に信じることと大して変わらないことで、それにハマるということは、先入観を脳内に植え付けてしまうことにもなりかねないでしょう。
そして例えば、見た訳でもないのに、"病院とか墓場の周辺には浮遊霊がウヨウヨしてる"とか、そうなった訳でもないのに、"ヘタに修行して空になったらそういうものに狙われる"とか、"憑依されたら大変だ"とか、"それらを寄せ付けないツールに頼らなければイケナイ"とか...もう、フツーに生きることが出来ないほどトラワレ続けているのです。
憑依ということを言うんなら、すでにある種の観念に憑依されているのではありませんかi
そういうことを好んで言う人というのは、大体において、目がキョロキョロとしてて、どうも落ち着きがなく、"心ここに在らず"という感じになっているものです。
トラワレるということは、取りも直さず思念にトラワレているということです。
仮に憑依現象みたいなものが、邪霊に因るものかどうかなどアタシャ知りませんi "邪霊がああi"などと決めつけようものなら、それこそ思念の呪縛が助長されるばかりというものですi こういう人は思念が思念を呼ぶという理が分かってないのです。
こうした事は、私が本当にスピリチュアルに感じている事とは丸っきり違うことなのです。
感覚的なものは、言葉で伝えるのに限界があるので、"ジンジン"、"ザワザワ"の違いだとかテキトーなこと言ってますが...端的に意識が思念が取り巻く方に向かうか、思念を超えた方に向かうかの違いと言っていいでしょう。
思念を超えた、霊妙なハタラキというものが在る...しかし、それはOOの霊とかの素朴実在論で説明出来るものでなく、安易に信じ込まれてしまうべきものでもありません。それは考えられ得るものでは無いってことです。
そして、それは自己の内奥を照らし出し、顕わにするでしょう。
有り様は様々でもこのように、予見に依存させないスピの在り方というものも近年は増えて来ているようです。
そこでは霊なるものは、自己自身と結び付かざるを得ません。
それが主体的な在り方というものです。
邪霊だのサタンだの、信じ込む神だのにまつわる思いの出る幕などありませんi
そういう思いにトラワレ続けているということは、意識がそれを超えたものに赴かない、ということなのですが、これは自分自身がそのように意識づけられないことにはどうにもならないことです。たとえ見えない導師の導きがあったとしても...
現代では、思いを超えた霊なるハタラキはますます強まって来ているのが、ヒシヒシと感じられる一方、ヴァーチャルな思念世界へと眩惑する動きも又強まっているようです。
その事を如実に物語っているのが雑多な理解のままの、今のスピリチュアルの動向と言えるでしょう。
その行方を分かつものは自己信頼ではないでしょうか?
ここではその言葉通り、霊というものについてですが、一つは例えば、前世とか、輪廻転生というものが在る...死後の世界、霊界というものがある、そこにはいくつか階層、レベルというものが在る...霊的存在とされるものには、成仏出来ない、迷える霊、邪霊と言われるもの、守護霊、聖霊などの高級霊などがある...
といった、所謂心霊学と言われる分野で説かれるようなものがあります。
当然のことながら、これらの事というのは、霊能力者とか特殊な人たち以外には確認のしようの無い事柄であり、それらを受け入れるということは、所与のものとして、前提として在るということを信じるしか無くなってしまうのです。
これは宗教的ドグマを盲目的に信じることと大して変わらないことで、それにハマるということは、先入観を脳内に植え付けてしまうことにもなりかねないでしょう。
そして例えば、見た訳でもないのに、"病院とか墓場の周辺には浮遊霊がウヨウヨしてる"とか、そうなった訳でもないのに、"ヘタに修行して空になったらそういうものに狙われる"とか、"憑依されたら大変だ"とか、"それらを寄せ付けないツールに頼らなければイケナイ"とか...もう、フツーに生きることが出来ないほどトラワレ続けているのです。
憑依ということを言うんなら、すでにある種の観念に憑依されているのではありませんかi
そういうことを好んで言う人というのは、大体において、目がキョロキョロとしてて、どうも落ち着きがなく、"心ここに在らず"という感じになっているものです。
トラワレるということは、取りも直さず思念にトラワレているということです。
仮に憑依現象みたいなものが、邪霊に因るものかどうかなどアタシャ知りませんi "邪霊がああi"などと決めつけようものなら、それこそ思念の呪縛が助長されるばかりというものですi こういう人は思念が思念を呼ぶという理が分かってないのです。
こうした事は、私が本当にスピリチュアルに感じている事とは丸っきり違うことなのです。
感覚的なものは、言葉で伝えるのに限界があるので、"ジンジン"、"ザワザワ"の違いだとかテキトーなこと言ってますが...端的に意識が思念が取り巻く方に向かうか、思念を超えた方に向かうかの違いと言っていいでしょう。
思念を超えた、霊妙なハタラキというものが在る...しかし、それはOOの霊とかの素朴実在論で説明出来るものでなく、安易に信じ込まれてしまうべきものでもありません。それは考えられ得るものでは無いってことです。
そして、それは自己の内奥を照らし出し、顕わにするでしょう。
有り様は様々でもこのように、予見に依存させないスピの在り方というものも近年は増えて来ているようです。
そこでは霊なるものは、自己自身と結び付かざるを得ません。
それが主体的な在り方というものです。
邪霊だのサタンだの、信じ込む神だのにまつわる思いの出る幕などありませんi
そういう思いにトラワレ続けているということは、意識がそれを超えたものに赴かない、ということなのですが、これは自分自身がそのように意識づけられないことにはどうにもならないことです。たとえ見えない導師の導きがあったとしても...
現代では、思いを超えた霊なるハタラキはますます強まって来ているのが、ヒシヒシと感じられる一方、ヴァーチャルな思念世界へと眩惑する動きも又強まっているようです。
その事を如実に物語っているのが雑多な理解のままの、今のスピリチュアルの動向と言えるでしょう。
その行方を分かつものは自己信頼ではないでしょうか?