人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人のスキズキ

2018-06-03 12:12:00 | 雑感
私はついつい、ブツブツと苦言みたいなことを呟きたくなってしまうのですが、これは多くの場合、一つの観方に過ぎないようなものが、まるで普遍妥当性あるもののように語られることに反応してしまうからのようです。
当人がそう感じた、そう観てると言うのならそれでいいでしょう。
それに基づいてイロイロなことにトライし続けるのもいいでしょう。
これは、要するに人のスキズキと言うことに尽きます。
私だって、"謎に満ちたあの男の隠された秘密が次々顕わになっている"この場を通じて、私のかなり偏った?スキモノぶりも明らかになっている次第です。
それが宗教やスピなどに関わってくると事の優劣、正しい、間違っている、といった規準がモロに持ち込まれるようです。
音楽や文学などの好みだったら、人と意見が分かれたってどおってことないことが、ただで済まなくなってしまうようなのです。

"この教えが最高なんですよ~
この方法に依らなければ悟ることが出来ないんですよ~"
なーんて、御大層なこと並べて、熱心に発信してるけど、当人はただそれらのことが好きだから、惹かれているから、そうしているというだけのことなんじゃないでしょうか?
好みというのは、琴線に触れるものがあるとか、実に具体的なもので、そういうものがなければ、いくら美味しそうなこと(これがある面とてもクサイことだったりする)並べたって他人は一向に見向きもしないでしょう。
しかし、この界隈では、"信じないと、従わないと救われない"、とか"有り難い教えを広めなければならない"と、妙な使命感とか、単純なスキズキという在り方から脱線する傾向なども出てきます。
こういうところから、人のスキズキでしていることから、他へのアッピールに重きが移り、その周辺にイロイロなことを盛り立てたりします。
"この教えはシャカ、キリストと同レベル...OOの神がここに降臨したもう..."
もう、こうなってくると単純なスキズキのことからズレてきて、承認欲求とか、商売がかったことから利潤の追求とかに変質してしまうのです。
当然のことながら、それに引き寄せられる人も単純なスキズキの共感、共鳴というところからズレてしまいます。
もう、大風呂敷の宗教、スピの周辺には招かれざる客がウヨウヨです。
そして、発信している当人ですらも、自分が何でそれに携わっているのか分からなくなってしまうでしょう。
どうしても惹かれて止まないものがある、"理屈抜きに好きなんだ~"ということは、認めるもなにも、そうなってしまっていることなんであり、どうしようもないことです。
もし、そこで"サイコーi"というものに出くわしているのなら、最高のものは手に握りしめていなくて、それに捉えられていることが知られるでしょう。
しかし ...如何に多くの人間は、スキでしている(ホントはさせられているのでしょう)ことから、そうでない諸々の性向へとズレてしまうことだろう...それすらもホントにスキでしている(させられている)ことなのか? 惰性じゃなくて?
自分の魂に、見えざる導師に聞いてみなはれi
ホントにそうなら、事の優劣とか善悪などの相対的価値基準など持ち出す必要など無いでしょう。
"あのね、これはとにかくいいんだから、素晴らしんだから、騙されたつもりで聴いてみなi"と、スキな音楽などを紹介したくなる心情というものはよく分かります。
だったら、自分がその理屈抜きに惹かれてしまうことを伝えればいいだけの話です。
それで共感するものには放っといても伝わるでしょう。そうでなければ別のものに共感するまでです。
余計なものにリードさせるのは、邪心以外の何ものでもないであろうi
誰にとってもスキでしている(させられている)ものこそがホンモノなのです。








コメント
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