"自分にとって、最も愛してやまない、惹かれてやまないものって何だろう..."
って、ずっと考えてる人、もしかして居たりして...
それはごく自然に浮かんだらいい訳でして、ムリになさる必要は無いですよ。念のため。
自分に自ずとそう感じれられるものがあればいいんです。
まあ、今は何も浮かばなくとも、そう感じたことを思い浮かべるのはいいかもしれません。
そうするといつの間にか、そういう考え事から離れて、昔あったことが今の今、そういうことになる...かもしれない。
そうなってみて、如何にそれまで"これが最高のものだ"、"信じなければ、こうでなければならない"と、人の、世の中の声におもねり、振り回され、支配されていたかが分かるのです。
思いを超えるということは、感じているままに何も考えられない、ということですね。これって"思考停止"ってことになるのかしら?
ついでに触れますけど、世間でも使われ、私も時折そう使っているこの言葉の意味合いは、例えば宗教の狂信者とかオカルトなどにハマって居るような場合のことで、これはある観念に強固に自分の思考が依存、隷属してしまうことで、思考のトラワレそのものであり、全く真逆ともとれることです。
この辺りが曖昧になってるために、どっかで"思考停止はとかく問題になるけど、たまには何も考えないでボーッとするのも悪くないですよ..."なんて、土台がズレた話も出てきちゃうのです。
このニ様の心性に顕著に分かたれ、表されることは主体性の有る無しでしょう。
一体、自分がサイコーに、幸福に感じられずして、どこにそんなものがあるのかi
"教えを、神を信じなければなりません"...自分に感じれられない神が何になるだろうかi "思考停止地獄"は、生きた神の通路を閉ざしてしまいます。自他の平安の道も閉ざされます。
イミテーションでない平安は、もう何も考えられなくなった時自ずと開かれます。
思考のトラワレもその時開放されます。リアルな疑うことの出来ない平安の前に、見せかけの、人がそう言っている平安は手放さざるを得なくなるからです。
それでもアレコレ考えてしまうかもしれません。何がリアルなものなのだろうか? その意味は? それが分かったとして何になるだろうか? 目的は?...捉えよう、掴もうとしてしまうのです。
意味も、目的もありません。"OOのために"と、自分自身と切り離された何ものかを追い求めていっても、捉えることが出来ません。
捉えたと思って掴んだ途端、別のものにスリ代わる...生きたものでなくなります。
本当に愛してやまない、惹かれてやまないものは、捉えられたら分かります。もう、とっくにそうなっているかもしれない。忘れてない?
思い出の一ページに過ぎないと思っていたものにも、そのヨミガエリから忘れられた自分自身が復活するかもしれません。
僅かな通路を通してさえも、ずっと自分の内に息づいていたものが、フタ開けしてくる...
あの高揚感、幸福感、自他一体感...もう、何も考えられない、何も言えない...
意味も目的も無い、真の平和がそこにある...
って、ずっと考えてる人、もしかして居たりして...
それはごく自然に浮かんだらいい訳でして、ムリになさる必要は無いですよ。念のため。
自分に自ずとそう感じれられるものがあればいいんです。
まあ、今は何も浮かばなくとも、そう感じたことを思い浮かべるのはいいかもしれません。
そうするといつの間にか、そういう考え事から離れて、昔あったことが今の今、そういうことになる...かもしれない。
そうなってみて、如何にそれまで"これが最高のものだ"、"信じなければ、こうでなければならない"と、人の、世の中の声におもねり、振り回され、支配されていたかが分かるのです。
思いを超えるということは、感じているままに何も考えられない、ということですね。これって"思考停止"ってことになるのかしら?
ついでに触れますけど、世間でも使われ、私も時折そう使っているこの言葉の意味合いは、例えば宗教の狂信者とかオカルトなどにハマって居るような場合のことで、これはある観念に強固に自分の思考が依存、隷属してしまうことで、思考のトラワレそのものであり、全く真逆ともとれることです。
この辺りが曖昧になってるために、どっかで"思考停止はとかく問題になるけど、たまには何も考えないでボーッとするのも悪くないですよ..."なんて、土台がズレた話も出てきちゃうのです。
このニ様の心性に顕著に分かたれ、表されることは主体性の有る無しでしょう。
一体、自分がサイコーに、幸福に感じられずして、どこにそんなものがあるのかi
"教えを、神を信じなければなりません"...自分に感じれられない神が何になるだろうかi "思考停止地獄"は、生きた神の通路を閉ざしてしまいます。自他の平安の道も閉ざされます。
イミテーションでない平安は、もう何も考えられなくなった時自ずと開かれます。
思考のトラワレもその時開放されます。リアルな疑うことの出来ない平安の前に、見せかけの、人がそう言っている平安は手放さざるを得なくなるからです。
それでもアレコレ考えてしまうかもしれません。何がリアルなものなのだろうか? その意味は? それが分かったとして何になるだろうか? 目的は?...捉えよう、掴もうとしてしまうのです。
意味も、目的もありません。"OOのために"と、自分自身と切り離された何ものかを追い求めていっても、捉えることが出来ません。
捉えたと思って掴んだ途端、別のものにスリ代わる...生きたものでなくなります。
本当に愛してやまない、惹かれてやまないものは、捉えられたら分かります。もう、とっくにそうなっているかもしれない。忘れてない?
思い出の一ページに過ぎないと思っていたものにも、そのヨミガエリから忘れられた自分自身が復活するかもしれません。
僅かな通路を通してさえも、ずっと自分の内に息づいていたものが、フタ開けしてくる...
あの高揚感、幸福感、自他一体感...もう、何も考えられない、何も言えない...
意味も目的も無い、真の平和がそこにある...