人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

身体性と霊性

2018-11-05 12:49:33 | 哲学・思想
何度も書いているように、私はかつて意識が飛んで行きそうになるという苦境に陥った時、私をそう在らしめるハタラキが臨んで、安心を得ることが出来たのです。
それは思いを超えた力、恩寵の光、見えない導き、真我的なものの発現でもある訳ですが、この安心に与ることが出来たということは、ある意味で"身体性"というものに、目覚めさせられたと言ってもいいのです。
そこでジンジンと、内的感覚のようなものを"身に覚えた"、ともいつも言っている通り、それは身体性とつながっていると言えるものです。
身体といっても、それは単純に物質的な肉体(と感じられるもの)そのもののことではありません。
物質とも精神的なもの、ともつかない感じのものです。
ハッキリ言えることは、具象、具体性を全く感じさせない抽象的、観念的なものとして認識されるものでは無いということです。
私が敢えて"身体性"と呼びたい理由もここに存しているのです。
そのものと共にある時、自ずとアチコチ飛び回り、浮遊しているような意識がそこに集められてくる、意識の中心がもたらされる...
又、リアリティ感というか、言いようのない実存感覚というものも、この"身体性"あってのものなのかもしれません。
これは人それぞれの感じ方にもよるのでしょうが、少なくとも私には宇宙的全体に自分が溶け行ってしまう感じはしません。
物質的肉体に閉じ込められてしまうものでも更々ありません。
そうした固形的なものとは全く違う意味で、"確たるもの"につながっているという感じを覚えるまでです。
それは具体的と言えど、物質感覚とは比較にならないほど、"目の当たりにしている"感のある、リアルな感覚なのです。
それは肉体とも、精神とも違い、モ一つ根底的なもの(霊的なもの?)ともどもの統合とも言うべきものなのでしょうか?
少なくとも、そのハタラキのあるところ、調和がもたらされる...調和あらしむるものと言ってもいいでしょう。
霊的、スピリチュアルなものとは何か? それは空想的観念事にうつつを抜かしていることなのでしょうか?
この霊妙なるものを目の当たりにすること、そのものではないでしょうか?
精神論に偏ったある種の"霊モノ主義者"は、傲慢にも"肉体は邪魔i"、"物質は悪i"、"物質次元は消え去り、次元上昇して霊次元に進化する..."と決めつけています。
その言説からは、観念の上滑りばかりしか感じず、確たるリアルなものは一つも伝わってきません。
そこには、そもそも我々はどうして、この肉体を纏って、物質次元に生まれてきたのか、という大前提が抜け落ちているのです。
病的なまでの肉体、物質の蔑視は、それをあらしめているものへの不信が感じられ、逆説的にフツー以上にその観念は、固定的な決めつけに満ちており、物質観念に囚われている(つまりは二元的分離感)ように感じられます。(霊的物質主義者)
我々が霊妙なハタラキに与る時、肉体も、精神も、霊なるものも思われたままのものではなくなり、そのありのままが映し出されることでしょう。
そのものが顕わになるにつれ、肉体"のみ"に囚われるにあらず、肉体から分離するにもあらず...肉体はそれだけで成っているのではなく、とりわけそれは精神というよりは、意識と不可離のものであることを始め、未だ知られざる機能が隠されているということが段々明らかになってくるでしょう。
単に全体のうちに消え去るでも、二元的分離でもない、妙なる調和と言おうか...それはそうあらしめるものが、直接一人一人に示される通りのものでしょう。
直接性というものは、思い描かれるものでない、具体的接触をともなうものです。それは手で触れるよりもはるかに直接的なもの...それを身体性と呼び、身に覚えることと言っているまでです。





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