人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

実在ということ

2018-11-18 11:45:44 | 哲学・思想
私はこのところ"感じ"について書かされていることが多いですが、こういうものは科学の領域、とりわけ物理学とか実証を要求される分野では全く問題にされないのは言うまでもありません。
だが、誰が何と言ってもその人の生は"感じに多く負っているのは、高名な物理学者とて例外でなく、確かなことでしょう。
この"感"は、人生観、世界観、歴史観など"観"にも転じられます。つまり感じたまま、見たままがあなた自身であり、世界なのです。
実証科学では、ものはモノとして実在すること、そのことが客観的に証明されなければ認知されることがありません。
だから愛とか幸福とか極めて"感じ"に左右されるものについては、扱わないのは当然のことですが、"神"、"霊"については微妙になってきますね。
神や霊というのは、モノなのか? モノというのはこのように実在性が問われるものです。
しかし、本当に"実在する"ということは、そういうことなのでしょうか?
リアルに在るもの、リアリティ...私もよくここで、そういうものに出くわしたことについて語っておりますが、言うまでもなく実証など出来ません。
実在というと、このようにモノが在ることと結び付きやすいので、"実存"という言葉を織り交ぜたりしているのですが、現実に無いものは存在しない(これは微妙な言い回しです)などと言い切れるものでしょうか?
"実証出来ないものはナイi"なんて沙汰は、科学的独断論の暴走というべきで、トンデモナイ話と言わざるを得ません。
これと同じく暴走し勝ちになるのが、宗教的、スピ的独断論です。"OOの神、過去世、超能力はアリますi"などとそういうものがアルことを前提にして語られ、又キリスト教神学など、各宗教に従属した御用学門では、自派で説かれる神、教えが正しく、全うなものであることが世の初めから定められていたかのように語られます。
"神は実在しているのですi 聖書にそう書かれているのですi"...まるで科学者がモノの実在を証明したように、鬼の首を取ったかのような物言いです。
聞かされる方は(少なくとも私には)、ただただ押し付けがましくて、うっとおしいだけです。
その紋切り型の言葉からは、内省の伴わない貧困な精神、通気性の無い閉ざされた意識みたいなものばかり感じられ、リアリティが伝わってきません。
それなら純然たるモノの在り方について語る、科学的独断論のほうがはるかにマシです。そういう畑でのつきあい方というものは窮屈ながらもありますが、空想、妄想が暴走するような語り口ときたら、もう...
そうです。そこにはリアリティが感じられないのです。
リアルなものは、どうしてそのように言い表せるのか?...正にリアルに感じる、"実在感、実存感"が在るからですi
これは科学畑とは相容れられない意識の有り様なので、証明出来ず、またその必要もありません。
そういう"実感"を持った人ならお分かりでしょうが、例えば神的な、霊的実在?と出会いリアリティに触れるということは、その向き合っているもの自体だけでなく、自分自身の内なるものからももたらされることが知られるでしょう。
つまりその実在感は、"私が在る"という"感じ"と切り離されていないのです。神的なものが臨むことは、自己実現と一つのものなのです。
このことは証明出来ないし、必要もないことですが、ある意味の"証"は可能であろうし、私はその必要も自分の意志でか、見えない意志でか感じてはいます。
それは感じ方、観方はそれぞれでも、感じを同じうする人、又感じようとする人(これは既に感じてる人だったりします)には自明なものとして伝わるものと感じているからです。
独りよがりな私でも、押し付けにならない、ある"伝道"精神は持ち合わせているようで、こうして日夜書かされている次第なのです。

コメント
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