「神話は我々の内なる意識に息づいている」
「神話と現実を混同してはならない」(ジョセフ.キャンベルー米国の神話学者)
多くの子供がそうであるように、幼少時の私の精神は、空想と現実の区別がつかない状態にしばしば支配されていました。
夜、寝床に就いたら天井の辺りに、巨大なカラスのごとき怪物が大きな口を開けて現れ、私を飲み込まんと迫ってくるように見えてきて、怖くて眠れなくなったこともあります。
"早く背中に羽を生やした天使のような助け主が来てくれないかなあ..."と、念じていたらホントに現れたように感じ、カラスの化け物もどっかへ消えて、いつの間にか寝入ってしまったことでした。
私はまだ現実世界の洗礼を受けていなかったのです。"みんなそう言っている現実世界"...私は確かにそれがどういうものか認知されていませんでした。
そして、その現実世界という、得たいの知れない怪物にすっかり飲み込まれてしまうようなことは...今に至るまでかつて一度も無かったかもしれません。
空想と現実の区別のつかない世界は、私の心象の中にずっと息づいているのです。
そこは時間も空間も定まっておらず、上にあるものが下にあり、内なるものが外になり...意識状態は、全く現実世界の有り様ではありません。この心象世界を神話的世界と言っていいでしょう。
私が思っている以上にそうした心象が私の人生を支配しているのかもしれません。
それらを言葉、文章という形で描き、表したものは多く文学作品で親しむことが出来ます。ズバリ古来より世界中で言い伝えられてきた神話、説話、物語なども勿論そうでしょう。
そうした領域で語られることが、直ちに現実世界に適応されて、"そこで語られていたことは、この現実で起こったある事象の予言に違いないi"...なーんてこと、ある訳無いi?
では、その心象世界にあるものは、すべてが文学作品のように空想の産物で、幻想に過ぎないのか?...そうだi...とは言えないでしょ?
小説でも映画でも、現実に無いものでもリアリティを感じるものはいくらでもあります。
霊とか前世とか現実で証明出来ないものなのに絶対あるi、というのが独断なら、見えないもの、証明出来ないものは絶対無いi、というのも独断なのです。
神話的世界で語られることを、ウンと現実世界よりのアプローチ、表現で語られるのが、霊界情報とか"神様のお告げ"、チャネリングなどでしょう。
私は実は結構、そうした書き物にも親しんできた方なのですが、上記したような理由で、肯定、否定共に断定して理解してしまうということはありません。
一つ言えることは、そうした情報に信じることを強要させるものを感知したならば、それは精神が貧困化するばかりで読むに値しないということです。
又、"神だの霊だの居るわけ無い!"と、ハナっから決めつけている向きは、多分文学作品以上のものは、そこから見つけ出すことは出来ないでしょう。
優れた?神話的世界のメッセージは、神話的意識に訴えてくるものなのですi..."日月神示"や"知られざる神示"でも"ミタマで受けて下されよi"と示されているであろうがなi
神話的世界のことは相応の(ことにミタマ相応)の親しみ方があるのです。
その事を端的に示したのが、出口王仁三郎師の「霊界物語」でしょう。(あの大著述の文学的価値については分かりませんが、その方面で言及されることが私の知る限りほとんど無いのはどうしたことでしょう? 私が試みようとも少しばかり思うのですが、どっから手をつけていいやら分からん状態なのです)
あの化け物物語こそは、すべての断定的解釈を笑うものに違いありません。
神話的世界のことは、人それぞれの霊界物語に編まれ、見えないものは、それを雛形にして世に顕れようとしているのでしょう。
限りある人間が決めてかかって、それに取って代わることは出来ないのです。
人様でなく"神様のお告げ"という形で表される理由も何となく分かります。
「神話と現実を混同してはならない」(ジョセフ.キャンベルー米国の神話学者)
多くの子供がそうであるように、幼少時の私の精神は、空想と現実の区別がつかない状態にしばしば支配されていました。
夜、寝床に就いたら天井の辺りに、巨大なカラスのごとき怪物が大きな口を開けて現れ、私を飲み込まんと迫ってくるように見えてきて、怖くて眠れなくなったこともあります。
"早く背中に羽を生やした天使のような助け主が来てくれないかなあ..."と、念じていたらホントに現れたように感じ、カラスの化け物もどっかへ消えて、いつの間にか寝入ってしまったことでした。
私はまだ現実世界の洗礼を受けていなかったのです。"みんなそう言っている現実世界"...私は確かにそれがどういうものか認知されていませんでした。
そして、その現実世界という、得たいの知れない怪物にすっかり飲み込まれてしまうようなことは...今に至るまでかつて一度も無かったかもしれません。
空想と現実の区別のつかない世界は、私の心象の中にずっと息づいているのです。
そこは時間も空間も定まっておらず、上にあるものが下にあり、内なるものが外になり...意識状態は、全く現実世界の有り様ではありません。この心象世界を神話的世界と言っていいでしょう。
私が思っている以上にそうした心象が私の人生を支配しているのかもしれません。
それらを言葉、文章という形で描き、表したものは多く文学作品で親しむことが出来ます。ズバリ古来より世界中で言い伝えられてきた神話、説話、物語なども勿論そうでしょう。
そうした領域で語られることが、直ちに現実世界に適応されて、"そこで語られていたことは、この現実で起こったある事象の予言に違いないi"...なーんてこと、ある訳無いi?
では、その心象世界にあるものは、すべてが文学作品のように空想の産物で、幻想に過ぎないのか?...そうだi...とは言えないでしょ?
小説でも映画でも、現実に無いものでもリアリティを感じるものはいくらでもあります。
霊とか前世とか現実で証明出来ないものなのに絶対あるi、というのが独断なら、見えないもの、証明出来ないものは絶対無いi、というのも独断なのです。
神話的世界で語られることを、ウンと現実世界よりのアプローチ、表現で語られるのが、霊界情報とか"神様のお告げ"、チャネリングなどでしょう。
私は実は結構、そうした書き物にも親しんできた方なのですが、上記したような理由で、肯定、否定共に断定して理解してしまうということはありません。
一つ言えることは、そうした情報に信じることを強要させるものを感知したならば、それは精神が貧困化するばかりで読むに値しないということです。
又、"神だの霊だの居るわけ無い!"と、ハナっから決めつけている向きは、多分文学作品以上のものは、そこから見つけ出すことは出来ないでしょう。
優れた?神話的世界のメッセージは、神話的意識に訴えてくるものなのですi..."日月神示"や"知られざる神示"でも"ミタマで受けて下されよi"と示されているであろうがなi
神話的世界のことは相応の(ことにミタマ相応)の親しみ方があるのです。
その事を端的に示したのが、出口王仁三郎師の「霊界物語」でしょう。(あの大著述の文学的価値については分かりませんが、その方面で言及されることが私の知る限りほとんど無いのはどうしたことでしょう? 私が試みようとも少しばかり思うのですが、どっから手をつけていいやら分からん状態なのです)
あの化け物物語こそは、すべての断定的解釈を笑うものに違いありません。
神話的世界のことは、人それぞれの霊界物語に編まれ、見えないものは、それを雛形にして世に顕れようとしているのでしょう。
限りある人間が決めてかかって、それに取って代わることは出来ないのです。
人様でなく"神様のお告げ"という形で表される理由も何となく分かります。