人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

始めにロゴスありき

2018-11-26 12:28:32 | 現臨、ハタラキ
「始めに言葉(ロゴス)あり。言葉は神と共にあり、言葉は神なりき。この言葉は始めに神と共にあり、萬のものこれによりて成り、成りたるものに一つとしてこれによらで成りたるはなし」(ヨハネ伝第一章)

クリスチャンならずとも、この一節は馴染みがあろうかと思いますが、この"言葉"と普通に書き表しているものの原語はギリシア語のロゴスです。
ロゴスなる言葉を初めて使ったのは、古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスとのことです。
彼は「ロゴスはプシュケーであり、それ自身増大してゆく」と言う...それは生成してやまない生命、ハタラキ的なものといったものであり、「けっして没することのないものを前にして、人はいかにして身を隠すことが出来ようか」と、すべてを見透してやまない神的な光ーすべてを照らす真の光(ヨハネ伝)であることが既に思念されていたのです。
これが何と主流のキリスト教では、聖書の"み言葉"に置換されて解釈されていることでしょう。いや、キ教に限らず多くの宗教では、始めにその宗派の、宗祖の"言葉ありき"になっているのではあるまいか?
始めとは原初のことです。我々は出来上がった言葉によって生まれ出でたとでも言うのでしょうか?
我々は"この肉体がある、考えることが出来る、動くことが出来る"と、既に出来上がったものを知ることが出来ますが、それらの始源のことは知ることは出来ないのです。
それらは一体何によってもたらされたのか...
そしてその後天的な知恵によって随意に"み言葉"を選び取り、従っているに過ぎないのです。
このロゴスの消息は、西欧キリスト教を中心に言い伝えられている教説ですが、東洋的仏教ではどうなのか?
ブッダは、一般に自らの修行によって悟道に導かれたと、特に多くの西欧的キリスト者からは、そのイエスの導かれ方との対比から理解されているようですが、形なき命ーダンマがブッダに顕わになった、という原態があったことはあまり認識されていないようです。
ブッダには、長年の修行の積み重ねという道程があり、それがダンマに預かる下地となったのは間違いないでしょうが、このブッダの原態に着目された玉城康四郎先生は「一歩内面の領域に立ち入ってみると...いったい超越者絶対者に対してブッダとイエスの間でどれほどの違いがあるであろうか」(玉城康四郎「仏教の思想第二巻.大乗仏教」/法蔵館)と述べられ、ロゴスとダンマとの同質性を強調されています。
それはどこまでも動的生命であり、静的に出来上がったものではないので比べ、区別することは不可能なのです。
そして、問題は二千年前の聖者、聖典についての学びに留まっていて済んでしまうことなのでしょうか?
一人一人の内面の領域と関わることでなくて何であろう...
我々にとって原初のものとは何でしょう。
その音信は、特殊な縁に生まれた者でない限り、宗祖の教えに触れるなど、初めて神的なものに触れた契機にあるのではないでしょうか?
それは形ある言葉を通して、言葉を超えた生きたもの、理屈無しに惹かれてやまないものを示されることに他ならないでしょう。これが動的な事態に与っているということです。
言葉を超え、理屈でないということは、アタマに訊いても分からない、そうなっていること以前の消息です。
言葉は真に神と共にある...神と共にある時、石のように動かない金科玉条のごとき、閉ざされた"み言葉"自体をおろがむようなことは本末転倒と言わねばならないでしょう。
原初のものへの誘いは、形あるものを取っ掛かりに、どこまでも形なきものへと開かれなければならないでしょう。
それは形なき、見えざるものが形ある、見える我々に生成してくる、成ってくるということと付節を同じくしているのかもしれません。





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