人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神とは感じるもの

2018-11-06 17:54:47 | 
"神は全知全能、この世の造り主..."
一神教を奉じていなくても、特に宗教を信じていない人でも、何となくこうした神のイメージを、何かから刷り込まれているように抱いている人も多かろうと思います。
で、大規模な自然災害なんかが起きると、"神は何故、我々をこんな酷いめに合わせるのか?"などと呟いたりします。
神は自然法則を司っているということが刷り込まれているようです。
一方で居たたまれない気持ちから神に救いを求めたりもして、望みが叶えられなかったら、"神はこの世にゃ居ないんだ...そう、思った..."
だけど、本当のところ神は居るとも、居ないとも、全知全能だとも分かりゃしないのです。
神のことは、神に聞かなきゃ分からない、こういうことは皆、人が、世の中が言っていることなのです。
神はひょっとすると、"そんな自然法則とか、宇宙の運行とかのことはアタシャ司っていないんだけどねえ..."と言いたいのかも知れないのです。
神はどんなにもっともらしく、合理的に説明がなされたとしても、少なくとも私には"永遠のX"のままです。
私は所与の定見に基づく言説から自由でいたいですから...
私は宗教との関わりもあり、安易に神について言及することもあるかもしれませんが、それはどこまでも定まったものでない、"神的なもの"なのです。
神は仰せの通り、全天全地を支配しているのかもしれません。
神の定めし自然法則...それを前にして我々は何を為し得よう...有無も是非もなく、ただただ従うしかありません。
それに向き合うとか、意識の有り様も何もあったものでありません。そこに私の主体的、人格的関わりなど出る幕など無いのです。
そのことと、私がいつも書いている、神的なものとの関わり、交わりのことと同じように語ることなど、不可能であることは言うまでもありません。
私は先述したように神的なものの実体については分かりません。しかし、そのものとの関わり、というより、それが私の実存に臨み、満たすことで実感されるものについては、他には伝えられないながらも自明のものがあります。
私の意識は理屈抜きにそのものに引き寄せられる...そこに愛、平安といったものがもたらされます。
これは何かの法則に基づいているのでしょうか? その現臨の支配から外にあれば、何とでも理屈付けは出来るでしょう。
しかし、そこには如何なる法則、原理、定理といったものは感じられません。あまりにもそのものと一枚になっているので、静止した状態のものを対象として眺めているようには映らないのです。
精神の内奥が開かれる、ということはそういうことなのです。
神を自然法則とか、運行など如何なる客観世界で言い表せるものに適応しようとしても徒労に終わるだけでしょう。
定見に満ちたドグマに閉じ込めてしまうことも尚更です。宗教世界で見られるこの傾向は、精神的なものが固定的なモノにおもねり、隷属していることを示しているのです。
神的なものが我々の意識に浸透すれば、如何なる状況にあろうとも、神をどう信じようと、信じまいと感じたままを受け入れずにおれません。
誰かが言ったように、神とは信じるものでなく、感じるものなのでしょう。
感じ方も人それぞれ...だから、神を求めることは、各々の自己を深め、明らかにすることと一つのものなのでしょう。

コメント
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