先日、原付バイク走行中、十数年ぶりに転倒してしまいました。
幸い打撲と擦り傷程度で済んだのですが、前輪がパンクしてスカスカになってたのに気付かなかったのです。
道路工事で、路面がガタガタしてて分かりにくかったこともありましたが、家も近かったのでオカシイと感じつつも走り続けてました。後続車が来ていたとか、場合によっては大変なことになっていたかもしれません。
私はこのように物心ついた頃から、何かに守られているのを感じています。
よく言われる、守護霊のような存在によるものかどうかは分かりませんが、いくつか感じていることはあるのです。
意識の深いところで、ある種のコンタクトのようなものがあること...いつも言っている"声なき声"の音信...
そのものと私とは、血統あるいはより強く、霊統のようなものでつながっていることなど...
こうゆうことは、ただ私が感じていればいいだけのことなので、殊更他に向けて"守護霊は居るのですよi その前世はスサノオの系統で..."とか、何とかその真実性を認めてもらおうと訴える必要など無いのです。
それを証明出来るものなど何も無いのですから...
私は人はそう見てないようですが、現実主義者なのですi
現実に感じて無いことを、有ること無いこと空想に任せて断定的に言うことなど出来る訳ないでしょーが...(宗教、スピの界隈には何とこうした空説が、断定口調の"ご託宣"に化けて溢れかえっていることかi)
だからですね...ものは試しで"あなたはスサノオの系統なのですか?"と、自分の内面に向けて問いかけてみると..."じんじんじん"とあの感じが全身心に浸透してくる感じがしてくる...この感じは沈黙の合図で"そのとおーりだi"と言っているのか?...どうかは知りませんi(もう一人の私が知っている?)
私のあの感じ、この感じというのはこういうものです。
勿論、そこに普遍妥当性とか正合性など求められません。私が感じていればいいのです。
これは意識を向ける、向く、向いちゃうことでもたらされるある反応について言っているのですが、こういうことは私の世界では昔から当たり前のことなのです。
当たり前過ぎて普段自覚されてませんが、これは結構私の生活に浸透しているのです。
例えば、ある本を読んでいて、この感じがしたとか...これは普通に言われている共感というものにモ一つ具体的なものがハタライていることを言っています。
普段、所謂サニワ何てこと、意識してやっている訳ではありませんが、この感じに基づいて判断している、されていることはままあることです。この判断は神様気取りにならないために、過信しないことが極めて肝心なことです。"ふーん、そんなものか..."と感じていればいいのです。
現実に感じてしまうものは仕方ありませんが、それを他に当てはめるように、妥当性があるように発信してしまうことは、自重すべきなのです。これは自分の心象にとどめておくということです。
(だってねえ...うっかり他に向けて、客観的妥当性があるように、又神様気取りになって自分はすべて分かっているかのように、発信してしまうと...その感じが無くなってしまう感じがするでしょ? こうして書いているだけで何か漏れちゃいないか...モッタイナイi だから私が感じているだけでいいのですi)
こうしたことは、主観的なことを言っているのは言うまでもありませんが、一人一人"意識的に、感じる"ことで、客観的事実に訴えるものでない、証明など不要の自明的な普遍性といったものが見えてくるかもしれません。
幸い打撲と擦り傷程度で済んだのですが、前輪がパンクしてスカスカになってたのに気付かなかったのです。
道路工事で、路面がガタガタしてて分かりにくかったこともありましたが、家も近かったのでオカシイと感じつつも走り続けてました。後続車が来ていたとか、場合によっては大変なことになっていたかもしれません。
私はこのように物心ついた頃から、何かに守られているのを感じています。
よく言われる、守護霊のような存在によるものかどうかは分かりませんが、いくつか感じていることはあるのです。
意識の深いところで、ある種のコンタクトのようなものがあること...いつも言っている"声なき声"の音信...
そのものと私とは、血統あるいはより強く、霊統のようなものでつながっていることなど...
こうゆうことは、ただ私が感じていればいいだけのことなので、殊更他に向けて"守護霊は居るのですよi その前世はスサノオの系統で..."とか、何とかその真実性を認めてもらおうと訴える必要など無いのです。
それを証明出来るものなど何も無いのですから...
私は人はそう見てないようですが、現実主義者なのですi
現実に感じて無いことを、有ること無いこと空想に任せて断定的に言うことなど出来る訳ないでしょーが...(宗教、スピの界隈には何とこうした空説が、断定口調の"ご託宣"に化けて溢れかえっていることかi)
だからですね...ものは試しで"あなたはスサノオの系統なのですか?"と、自分の内面に向けて問いかけてみると..."じんじんじん"とあの感じが全身心に浸透してくる感じがしてくる...この感じは沈黙の合図で"そのとおーりだi"と言っているのか?...どうかは知りませんi(もう一人の私が知っている?)
私のあの感じ、この感じというのはこういうものです。
勿論、そこに普遍妥当性とか正合性など求められません。私が感じていればいいのです。
これは意識を向ける、向く、向いちゃうことでもたらされるある反応について言っているのですが、こういうことは私の世界では昔から当たり前のことなのです。
当たり前過ぎて普段自覚されてませんが、これは結構私の生活に浸透しているのです。
例えば、ある本を読んでいて、この感じがしたとか...これは普通に言われている共感というものにモ一つ具体的なものがハタライていることを言っています。
普段、所謂サニワ何てこと、意識してやっている訳ではありませんが、この感じに基づいて判断している、されていることはままあることです。この判断は神様気取りにならないために、過信しないことが極めて肝心なことです。"ふーん、そんなものか..."と感じていればいいのです。
現実に感じてしまうものは仕方ありませんが、それを他に当てはめるように、妥当性があるように発信してしまうことは、自重すべきなのです。これは自分の心象にとどめておくということです。
(だってねえ...うっかり他に向けて、客観的妥当性があるように、又神様気取りになって自分はすべて分かっているかのように、発信してしまうと...その感じが無くなってしまう感じがするでしょ? こうして書いているだけで何か漏れちゃいないか...モッタイナイi だから私が感じているだけでいいのですi)
こうしたことは、主観的なことを言っているのは言うまでもありませんが、一人一人"意識的に、感じる"ことで、客観的事実に訴えるものでない、証明など不要の自明的な普遍性といったものが見えてくるかもしれません。