私が見えざる導師などと呼んでいるものは、ある"人格的な交わり"のようなものを通して感じてくるものからそう仮称しているのです。
神的な、見えないもの自体に人格があり、自由意志があるかどうかはほんとのところは分かりません。
人格的交わりというのは、"血が通っている、暖かいものがある"、"触れれば、ビリビリしてくる確かな手応えがある"、"目と目を合わせるように、まんまに向き合っている"などのような感じを伴うもののことです。
しかし、これはあくまで私の感じを言っているだけで、そこには私の人格的なものが投影されているだけであり、本当はその当体には人格(神格?)的なものは何も無くて、ただ宇宙法則のようなものとしてハタライているだけなのかもしれないのです。
だけど...こうして書いている最中にも、私の心の投影だか何だか知りませんが、声なき音信を受けます。
"お前自信がどう感じているか、受けてみよi"と...他の声におもなってはいけないのですi
"どう、感じようとお前の自由だi、感じたままがそれなのだi"と告げているようです。
この音信は、自身からは、"我はOOのものなり..."、"そう従うべしi"、といった感じで示したりはしません。私の主体性にゆだねようとするのです。
このことは実に逆説的なことなのですが、それはどういうことか?...私は"この感じにゆだねざるを得ない"ということなのですi
そう、"じんじんじん"この感じですi
猫でも、犬でも、人間でも生まれたての子供が、どうして親に無条件の親愛を寄せてゆだねようとするのでしょうか?
言葉で言い表し得ないスキンシップ、ある"イキをかける"ことではないでしょうか?
目も見えない、動きも覚束ない子供はその温かい、優しい感覚を通して親子のつながりを知るのです。
"あなたはミタマの親なのか?"
"ああ...ヒタイの辺りに何とも言えない温かいものが灯されて、それが全身心を包むのが感じられる..."
"宇宙法則?、宇宙意識?、全体しかない?...そう、私にはこの愛、安心をもたらす温かいものこそが宇宙のすべてだi"
"神は人格をもたない理神のようなもの?...ただただ、目から温かいものが込み上げてくる...すべての理屈は涙に流されて行く..."
私には誰が何と言おうと、自由に考え、自由に感じる意志が与えられています。
だからこそ、"この感じにゆだねざるを得ない"ことを自由に感じることが出来るのです。
神的なものをどう感じ、言い表すかも自由なのです。
どう、感じるかは人それぞれですが、少なくとも私は、一神教などに見られるように、自分が神的なものの奴隷ともシモベとも感じていません。
人格的交わりとは自由な交わりのことでしょう。
私はこの神的なものをより明らかなものにしたいと望んでいます。それは客観的事実に適応させることとは全く違うことです。
それは、それ自体なるものの自由なる自己顕現によるものでしょう。
そして、自明なる真理がだんだんありやかになってくるでしょう。
ああ...こうして書いていると、うっかりして、ここから何かが離れて行きそうだ...書いてはならない...しかし、書かねばならないi
あちらとこちらの自由なる要請なのだから..."書かざるを得ないi"
神的な、見えないもの自体に人格があり、自由意志があるかどうかはほんとのところは分かりません。
人格的交わりというのは、"血が通っている、暖かいものがある"、"触れれば、ビリビリしてくる確かな手応えがある"、"目と目を合わせるように、まんまに向き合っている"などのような感じを伴うもののことです。
しかし、これはあくまで私の感じを言っているだけで、そこには私の人格的なものが投影されているだけであり、本当はその当体には人格(神格?)的なものは何も無くて、ただ宇宙法則のようなものとしてハタライているだけなのかもしれないのです。
だけど...こうして書いている最中にも、私の心の投影だか何だか知りませんが、声なき音信を受けます。
"お前自信がどう感じているか、受けてみよi"と...他の声におもなってはいけないのですi
"どう、感じようとお前の自由だi、感じたままがそれなのだi"と告げているようです。
この音信は、自身からは、"我はOOのものなり..."、"そう従うべしi"、といった感じで示したりはしません。私の主体性にゆだねようとするのです。
このことは実に逆説的なことなのですが、それはどういうことか?...私は"この感じにゆだねざるを得ない"ということなのですi
そう、"じんじんじん"この感じですi
猫でも、犬でも、人間でも生まれたての子供が、どうして親に無条件の親愛を寄せてゆだねようとするのでしょうか?
言葉で言い表し得ないスキンシップ、ある"イキをかける"ことではないでしょうか?
目も見えない、動きも覚束ない子供はその温かい、優しい感覚を通して親子のつながりを知るのです。
"あなたはミタマの親なのか?"
"ああ...ヒタイの辺りに何とも言えない温かいものが灯されて、それが全身心を包むのが感じられる..."
"宇宙法則?、宇宙意識?、全体しかない?...そう、私にはこの愛、安心をもたらす温かいものこそが宇宙のすべてだi"
"神は人格をもたない理神のようなもの?...ただただ、目から温かいものが込み上げてくる...すべての理屈は涙に流されて行く..."
私には誰が何と言おうと、自由に考え、自由に感じる意志が与えられています。
だからこそ、"この感じにゆだねざるを得ない"ことを自由に感じることが出来るのです。
神的なものをどう感じ、言い表すかも自由なのです。
どう、感じるかは人それぞれですが、少なくとも私は、一神教などに見られるように、自分が神的なものの奴隷ともシモベとも感じていません。
人格的交わりとは自由な交わりのことでしょう。
私はこの神的なものをより明らかなものにしたいと望んでいます。それは客観的事実に適応させることとは全く違うことです。
それは、それ自体なるものの自由なる自己顕現によるものでしょう。
そして、自明なる真理がだんだんありやかになってくるでしょう。
ああ...こうして書いていると、うっかりして、ここから何かが離れて行きそうだ...書いてはならない...しかし、書かねばならないi
あちらとこちらの自由なる要請なのだから..."書かざるを得ないi"