人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ある仏教者の告白

2019-05-12 11:26:27 | 雑感
"私は解脱に失敗したi...魔境に陥っていたi"
と、いうような内容の、ある仏教者の懺悔の告白がネットを賑わしているようです。
又、どこぞやのバータレが何かやらかしたのか、と思いきや...
これが名の知れた僧侶のKさんだったと知ってビックリしました。
この人は、本も沢山出していて、大きい書店の仏教書のコーナーに行けば大抵目にすることが出来ます。
私は一冊も読んだことが無く、従って彼のことはほとんど知りませんので、あまり多くのことは語れません。
しかし、筈見した程度ながら、これが実に今の宗教、スピ界隈に問題を投げかけているのではないかと感じてならないのです。

私は、ずっとこの人は禅関係の人と思い込んでいたのですが、元浄土真宗で、そこを破門されてテーラワーダ仏教に則った修行に勤しんでいたそうです。
"自力修行して解脱を目指していた"...浄土系仏教から外れる、外されるのも必然的と言えるでしょうか?
その告白によると彼は、昨年暮解脱の一歩手前の境地にあると感じて、その"上がり"として無宿生活を営むことを思い付いたそうです。
何でも自分のブッダと共に居た時の前世の因縁が分かって、そうすることが解脱につながると思ったとか...
しかし、そこで自分では克服したと思い込んでいた性欲が激しくもたげてきたり、日常ならぬ生活からくるであろう、不安、恐れ、悲しみなど諸々の感情に囚われてしまったという...
そこで現実に覚まされた?...前世の記憶らしきものも、解脱の一歩手前の境地も魔境だったi
これは自分が当たり前の人間であることに"目覚めた"、ということではないでしょうか?
そして自分も他人も欺いていたことに気付き、これからは著述も教師も退き、環俗して普通の人間に戻る決心をしたそうです。
しかし、他人のチャチャ入れのような感想で申し訳ないですが、彼はまだ覚めきっていないと思われます。
彼が世話になっている編集者に話したことによると、初めてその人に会った時悟りのレベルは"28"くらいで、修行して"90"くらいに達したと思っていたが、実際は"30"くらいしかないと分かった、とか言っているからです。
本当に環俗に目覚めたのなら、自分の悟りのレベルは"0"と言って欲しかったi
"業生の自分が悟るのではない"(五井昌久)
思われた自分が悟る、解脱するものと思い込むところに、魔が忍び寄るのではありませんか?
今後、Kさんがどう歩むかは知るよしもありません。所詮他人事ですから...
しかし、ここで語られていることは全く他人事ではありませんi 宗教、スピの界隈には幾重にも思念が取り巻いているのですi
すべての宗教家、スピ教師、それを生業とするもの、メッセンジャー...この告白に接してどう感じるでしょうか?
そして又、彼がどういう人かということも全くどうでもいいことです。
しかし、このことは強く言いたいi
私のように失うものが大して無い人間ならいざしらず、こういうことを衆前で告白出来るってことは、並大抵のことじゃないです。
"進んだ人間、悟った人間"気取りには、到底与りしれない、どんな難行苦行も及ばない至難なことです。
ここには思われた人間を超えた何かのハタラキかけを感じざるを得ません。
ここに思いを超えたものの消息がある...
私はこのような告白に踏み切ったKさんの勇気を称えたい気持ちで一杯です。
コメント
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