人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思いを超えた導き②

2019-05-17 12:16:27 | ガイダンス
昭和53年の今頃の時季、私は大学に行ってはいたけれど、授業など放りっぱなしで、図書館で宗教、精神世界的なことばかり勉強してたくらい、毎日そんなことで頭が一杯でした。
ただ、それで自分がどういう方向に歩もうとしているのかは全く分かりません。
当時ある種の導師的存在だった五井先生に倣って白光会に入るのか、いやもう、特定の団体に関わる信者生活は、その少し前に味わった、精神的呪縛を抱えることになりそうで踏み切れない...といった具合にとにかく宙に浮いている状態なのでした。
そして又、その界隈には何が現実で、何が空想なのか判然としない、エーテル状の空気が取り巻いているようで、それがさらにそういう感じをもたらしているようでした。
五井先生が唱導していた「世界平和の祈り」も思い出した時にやる程度で、あまりハッキリと心が安らぐという感じにはなりませんでしたが、真夏の頃からか、"ぐぐぐっ"(上手く言葉では伝えられない)と、"あ、これは何か違うなあ..."というものを感じるようになったのです。これは自己流の祈りに拠るものです。
自己流と言っても、言葉の通りのものでもなく、決まった祈りの文句や形がある訳でもなく、そういうもの以前の心の在り方に関わるもので、それは大体"み心のままに導きたまえ"というようなニュアンスの祈り心、心持ちで居るようなことです。
こういうのはヤッパリ自己流というのは当たらないでしょうね。しかし、誰に習ったのだろう...
思い返せば、これは全く当時の私自身の内心からの現れと言う他ありません。
そういう心持ちで居ることで仄かに"愛、平安、リアリティ"というものを覚え始めたのです。
これが、いつも言っている"意識を神的なものに向ければ、それに導かれる"というものの端緒なのです。
とにかく、祈りとか瞑想とか言いますが、五井先生が言われるように、思いを神的なものに向ける、満たしておくことが肝要なのです。
そのようにして、私は次第に混沌とした心的状態に、ある道標が与えられるようになりました。
端的に言えば"愛、平安、リアリティ"にあるものに導かれるようになった、ということです。逆に言えば、そういうものを感じないものを識別するようになったのです。
こうして私は宗教、精神世界に取り巻く、現実とも空想ともつかない、前世とか高次元世界といったオカルト的言説に容易く迎合しなくなりました。
"み心のままに"ということは、全託に通じるものなのですが、私は何となく、そのうち何かのっぴきならない事態に陥ることになるような気もしていました。
あにはからんや、それはその年の暮れに起きました。ウカツに近づいた洗脳集団への恐怖から、必死に祈っていた(これはもう、なりふり構わず"助けて下さいi"という体のもの)ところ、思考が止まったようになり、それどころか意識も飛んで行きそうになってしまったのです。
これは気休めどころでなく、本当にみ心ままに神にゆだねるしかなかったのです。
そして、このことがその翌年早々、初めて現臨に与ることとつながって行った訳です。
こうして徐々に、思いを超えたものの消息が示されて行ったと言えるでしょう。
やはり改めて思うに"見えざる、思いを超えた導き"というものを感じずにおれません。
そう考えると、自己流のような祈りも"見えざる導師"直伝だったようです。

コメント
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