ネットに2ch、5ch(掲示板)というのがあります。
これは、もうとにかく荒れることで知られるもので、マトモに読めるのは少ないのですが、最近アップされてるノンデュアリティ、ノンデュアリティ.ティーチャーに関するものは、その辺のそのテの教説を読むよりはるかに面白いし、ためになります。今のところ"荒らし"は、現れていないようです。
最近、頻繁に投稿されているのは、関西弁のオッチャンで、この人OSHOやクリシュナムルティ、五井先生と会ったことがある、というから結構年配のようです。
この人らのオーラってハンパないんですとi...他には五井先生と紛らわしい五井野某氏...へえ、そうかねえ?...後は本山博士とか...(オッチャンこの人にかなり影響受けてるようでんな...)
連休の間、このオッチャンと非二元原理主義者とおぼしき人?とのやり取りがありました。
オッチャンは双方、理解が曖昧なままの不毛なやり取りすることを避けるためか、"非二元で言う自己とは何か?"、とか話を整理しようとするのですが、相手は"その自己というのは非自己なんで..."とか、上から目線で、"話を聞きたければ、あなたが学んだことはすべて捨てなければなりませんi"とか言ってマトモに話に応じようとしません。
特に議論を吹っ掛けている訳でも無いのに...(ま、"意識の構造"とかの話もメンドクサそうやけど、共通の理解ちゅー場を見つけるちゅーことは、こうした対話の基本ちゃいまっか?)
こういう人が何でこういう場に出てくるんでしょうかねえ? "消えてもらうしかない"、と思っていたのですが、どうやら"私は居ない"境地に達したようで、退場されたようです。もっとも、誰が誰だか分からんのがこの場だし、"なりすまし"も居るかも分かりませんが...
ここ数日はオッチャンと、原理主義というほどじゃないけどバリバリ非二元論者(ラマナ.マハルシの帰依者?)と、ビギナー(不適切、エラそうな表現なんやが、敢えてそう言わしてもらいまっさ)とで展開されているようです。
ビギナーはどうも、オッチャンが紹介していた五井野氏の「瞑想したって仏になれない」という言葉に引っ掛かってるらしく、しきりに"瞑想しちゃダメなのかなあ..."と呟く...それを非二元論者が"瞑想したらダメi"とプレスする...で、ラマナの本「あるがままに」を何回も読めiと...オッチャンはマハームドラー修法が載っているOSHOの「存在の詩」を熱く推してる...(ワイはどっちも読んどるでえ...人それぞれバイブルつーのんはあるねんな...)
どうしても、"どうやったらええねん?"て話になりますね。
非二元、ラマナ.マハルシと言えば、"私は誰か?"とひたすら尋ねてゆく真我探求の道です。
私はマトモにそれに勤しんだことはありません。何か自分が自分に尋ねるみたいに、空回りしそうで、入り口で挫折しそうです。
するとオッチャン..."己でないものを識別すればいい"と...(こりゃ、ええi オッチャン神様やi)自分からは中々"私"を見つけられないのです。しかし"私でないもの"を識別しようというところには、あの"すべてを見透す、観照する目"、"照明"を誘起させるものがあります。これが立ち上ればシメたものです。
そうなると、後はサット.チット.アーナンド(アーナンダ。存在、純粋意識、至福)に導かれるのみ...
"能書きはいいから、どうしたら真我に至れるのか教えてi"
"サット、チット、アーナンドを能書き言うたらあかんよなあ"(そや、そやi)
そこには、熟達者もビギナーも無い...
"真我の探求"もよし、"守護霊、守護神に感謝"もよし、"主イエス.キリストにあって"もよし...
(分けられんさかいな...ほんま、ノンデュアリティやなi)←あんた、誰?
これは、もうとにかく荒れることで知られるもので、マトモに読めるのは少ないのですが、最近アップされてるノンデュアリティ、ノンデュアリティ.ティーチャーに関するものは、その辺のそのテの教説を読むよりはるかに面白いし、ためになります。今のところ"荒らし"は、現れていないようです。
最近、頻繁に投稿されているのは、関西弁のオッチャンで、この人OSHOやクリシュナムルティ、五井先生と会ったことがある、というから結構年配のようです。
この人らのオーラってハンパないんですとi...他には五井先生と紛らわしい五井野某氏...へえ、そうかねえ?...後は本山博士とか...(オッチャンこの人にかなり影響受けてるようでんな...)
連休の間、このオッチャンと非二元原理主義者とおぼしき人?とのやり取りがありました。
オッチャンは双方、理解が曖昧なままの不毛なやり取りすることを避けるためか、"非二元で言う自己とは何か?"、とか話を整理しようとするのですが、相手は"その自己というのは非自己なんで..."とか、上から目線で、"話を聞きたければ、あなたが学んだことはすべて捨てなければなりませんi"とか言ってマトモに話に応じようとしません。
特に議論を吹っ掛けている訳でも無いのに...(ま、"意識の構造"とかの話もメンドクサそうやけど、共通の理解ちゅー場を見つけるちゅーことは、こうした対話の基本ちゃいまっか?)
こういう人が何でこういう場に出てくるんでしょうかねえ? "消えてもらうしかない"、と思っていたのですが、どうやら"私は居ない"境地に達したようで、退場されたようです。もっとも、誰が誰だか分からんのがこの場だし、"なりすまし"も居るかも分かりませんが...
ここ数日はオッチャンと、原理主義というほどじゃないけどバリバリ非二元論者(ラマナ.マハルシの帰依者?)と、ビギナー(不適切、エラそうな表現なんやが、敢えてそう言わしてもらいまっさ)とで展開されているようです。
ビギナーはどうも、オッチャンが紹介していた五井野氏の「瞑想したって仏になれない」という言葉に引っ掛かってるらしく、しきりに"瞑想しちゃダメなのかなあ..."と呟く...それを非二元論者が"瞑想したらダメi"とプレスする...で、ラマナの本「あるがままに」を何回も読めiと...オッチャンはマハームドラー修法が載っているOSHOの「存在の詩」を熱く推してる...(ワイはどっちも読んどるでえ...人それぞれバイブルつーのんはあるねんな...)
どうしても、"どうやったらええねん?"て話になりますね。
非二元、ラマナ.マハルシと言えば、"私は誰か?"とひたすら尋ねてゆく真我探求の道です。
私はマトモにそれに勤しんだことはありません。何か自分が自分に尋ねるみたいに、空回りしそうで、入り口で挫折しそうです。
するとオッチャン..."己でないものを識別すればいい"と...(こりゃ、ええi オッチャン神様やi)自分からは中々"私"を見つけられないのです。しかし"私でないもの"を識別しようというところには、あの"すべてを見透す、観照する目"、"照明"を誘起させるものがあります。これが立ち上ればシメたものです。
そうなると、後はサット.チット.アーナンド(アーナンダ。存在、純粋意識、至福)に導かれるのみ...
"能書きはいいから、どうしたら真我に至れるのか教えてi"
"サット、チット、アーナンドを能書き言うたらあかんよなあ"(そや、そやi)
そこには、熟達者もビギナーも無い...
"真我の探求"もよし、"守護霊、守護神に感謝"もよし、"主イエス.キリストにあって"もよし...
(分けられんさかいな...ほんま、ノンデュアリティやなi)←あんた、誰?