"あっちのスレはまるで宗教戦争みたいだi"
"一瞥体験"のスレは避難所となり得るか?
宗教、スピには原理主義というものが付き物ですが、非二元原理主義ほどナンセンスなものはありません。
原理主義というもの自体、二元的観方から生まれるものでしょうのに。
"ああ...ラマナ.マハルシの言葉ですら、彼らの正しい原理を立てる道具になってしまうのか..."
"疑う主体がなくなってしまった"というコメントに対し、"それは疑う主体がないと言っている主体がある、と言っているのではないか"と返したら、それはもう、そこでマトモに話す気がなく(誰がこうした話に応じられようかi)、自説に固執し、相手をやりこめることに意識が行ってしまったことの表れという他ないでしょう。
何がかくまで彼らを自我の消滅に駆り立てるのでしょうか?
本当に自我が消滅したらこうしてブログを書くことも、掲示板で議論を戦わすことも出来なくなるはずです。
自我はあっていい、いや無きゃオカシイのです。
"悟った人"気取りの人は、この当たり前のコンコンチキのことが分からないのか、そんな思いは自分と共にどっかへ消えてしまったのだろう...
私はむしろビギナー(不適切な発言、失礼)のコメントから学ぶことが大きいです。
彼らの発言から基本的なことに立ち返らせてもらえるからです。彼らは概してあの身体中が痒くなってくる、持って回った、取り澄ましたような悟った人っぽい言い方はしません。
彼らはごくシンプルに"悟りたい、覚醒したいi"ようです。
私も色々言うけど、それ自体悪い訳じゃありません。正直な気持ちの吐露なんですから...
いや、ホント、世の中生きづらいのか、悟り、覚醒、一瞥体験を求める人って多いですねえ...求めているのは、イチイチ言う必要もなく自我からです。誰もがそうだったはずでしょう...これはしょーがないことです。悟った人気取りも例外ではないはず...
ただ、その求めの裏側に"見えざる導き"が隠れてたりするのです。
そして、うんうん唸りながら瞑想してても、足がシビレるだけだったものが、"思いがけなく"全身心がシビレる事態になったりすることもあるのです。
覚醒とは自我が思いを超えたものの前に降参してしまうことに他なりません。
"思いを超えたものがある"...これを蔑ろにすると、自我がそれに取って代わるようになってしまうのです。
そして自我はそれ自体を消滅させるか、限りなく肥大化させるように駆り立ててしまうのではないでしょうか? 自我ばかりになってしまうことが問題なのです。
では、思いを超えたものとは真我なのでしょうか?
"自我を観照するものは、自我なのか、真我なのか?"...理屈から言えば、それを超えたものでなければ、照らされるということは不可能でしょう。
しかし、私はどっちでもいいと思いますよ...どっちでもいいとは理屈などどっちでもいいということです。(自我か、真我かと立てるところに"本当の自分になりたがる思い"が増幅してくるのでしょう)
もし、そういうことになっていたら理屈でなしに感じられるはずだから...
誰ぞやも言ったように、神でも真我でも感じるものなのです。
これを蔑ろにするから、どこにも行き着かない議論に明け暮れてしまうのでしょう。
スピ関係のスレは、中々平穏にはゆかないものです。
"一瞥体験"のスレは避難所となり得るか?
宗教、スピには原理主義というものが付き物ですが、非二元原理主義ほどナンセンスなものはありません。
原理主義というもの自体、二元的観方から生まれるものでしょうのに。
"ああ...ラマナ.マハルシの言葉ですら、彼らの正しい原理を立てる道具になってしまうのか..."
"疑う主体がなくなってしまった"というコメントに対し、"それは疑う主体がないと言っている主体がある、と言っているのではないか"と返したら、それはもう、そこでマトモに話す気がなく(誰がこうした話に応じられようかi)、自説に固執し、相手をやりこめることに意識が行ってしまったことの表れという他ないでしょう。
何がかくまで彼らを自我の消滅に駆り立てるのでしょうか?
本当に自我が消滅したらこうしてブログを書くことも、掲示板で議論を戦わすことも出来なくなるはずです。
自我はあっていい、いや無きゃオカシイのです。
"悟った人"気取りの人は、この当たり前のコンコンチキのことが分からないのか、そんな思いは自分と共にどっかへ消えてしまったのだろう...
私はむしろビギナー(不適切な発言、失礼)のコメントから学ぶことが大きいです。
彼らの発言から基本的なことに立ち返らせてもらえるからです。彼らは概してあの身体中が痒くなってくる、持って回った、取り澄ましたような悟った人っぽい言い方はしません。
彼らはごくシンプルに"悟りたい、覚醒したいi"ようです。
私も色々言うけど、それ自体悪い訳じゃありません。正直な気持ちの吐露なんですから...
いや、ホント、世の中生きづらいのか、悟り、覚醒、一瞥体験を求める人って多いですねえ...求めているのは、イチイチ言う必要もなく自我からです。誰もがそうだったはずでしょう...これはしょーがないことです。悟った人気取りも例外ではないはず...
ただ、その求めの裏側に"見えざる導き"が隠れてたりするのです。
そして、うんうん唸りながら瞑想してても、足がシビレるだけだったものが、"思いがけなく"全身心がシビレる事態になったりすることもあるのです。
覚醒とは自我が思いを超えたものの前に降参してしまうことに他なりません。
"思いを超えたものがある"...これを蔑ろにすると、自我がそれに取って代わるようになってしまうのです。
そして自我はそれ自体を消滅させるか、限りなく肥大化させるように駆り立ててしまうのではないでしょうか? 自我ばかりになってしまうことが問題なのです。
では、思いを超えたものとは真我なのでしょうか?
"自我を観照するものは、自我なのか、真我なのか?"...理屈から言えば、それを超えたものでなければ、照らされるということは不可能でしょう。
しかし、私はどっちでもいいと思いますよ...どっちでもいいとは理屈などどっちでもいいということです。(自我か、真我かと立てるところに"本当の自分になりたがる思い"が増幅してくるのでしょう)
もし、そういうことになっていたら理屈でなしに感じられるはずだから...
誰ぞやも言ったように、神でも真我でも感じるものなのです。
これを蔑ろにするから、どこにも行き着かない議論に明け暮れてしまうのでしょう。
スピ関係のスレは、中々平穏にはゆかないものです。