人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の解放

2019-05-28 12:17:10 | 
いつも言うけど、もうとにかく耳鳴りが大変なことに...
静かなところに居ると、耳鳴りしか聞こえない時もあります。
しかし、これ耳から聞こえてくる訳じゃないし、どっから聞こえてくるのかしらん?
どっからか分からないけど、ハッキリ聞こえる...幻聴じゃないよi
私はここんとこ耳鳴りは、神鳴りに通ずると感じているのですが、神(的なもの)もどこに居るのか分かりません。
けど、それは現臨と言ってもいいのですが、ハッキリと感じられます。リアリティはある、いやリアリティそのものと言っていいけど、捉えられないのです。
実に捉えられないということこそは救いなのですi 内外には何とトラワレで溢れかえっていることかi 中でもその神に囚われるほど救い難いものはありません。
何故、この不可知のものに囚われてしまうのか? 観念、思念に取り込まれるためでしょう。
"特定の神を信じなければ救われない"
"神を信じず、従わないものは、罪を着され、地獄に送られる"
"神は我々のはるか遠くにお在し、余程の信仰、修行に勤しまなければたどり着けない"
これまで神を我々に、何か恐ろしいもの、遠いもののように囚われさせているのは信じる宗教の存在でしょう。
しかし、宗教は我々に幸福をもたらすどころか、相克、不調和の種になるばかりであることが暴露され、信頼を失い、最近のスピなどでは神のことは説かれないものも多いようです。
神そのものは(諸々の不充分な、歪められた神の観念は存在しても)、一度も明らかにされたことは無かったにもかかわらず...
その一方、神的なものを蔑ろにした精神的な道では、自己に囚われ始めます。
悟りや覚醒体験といったものですら、自我性に絡められるのです。
これまで、宗教、スピで伝えられてきた悟りとか救いとはどういうことなのでしょうか?
勿論、簡単に言えることではないですが、一つの大きな実感を伴う様態は、あらゆる囚われからの解放というものでしょう。
精神的にも囚われの身になったことのある者ならお分かりでしょうが、自らはそこから解かれ放たれることは出来ないのです。
我々をそこから自由にさせてくれるものがあるのですi これを神的なものと言っているのです。
最近、色々な人の覚醒、一瞥体験の模様について目にすることがありましたが、このものに触れているものが実に少ないのが不思議でしょうがありません。まあ、思議を超えたものには違いないので、それもそうかなとも思えますが...
この場合は我々を超えた、超越者、絶対他者というニュアンスをよりもたせていますが、それは"捉えることが出来ない"のです。
捉えざるものと共にある時、我々は"放たれる"と言ってもいいのです。神こそは"解放者"なのですi
こう考えると、我々が幸福に与る上で今もっとも必要なことは、神を信じる人間も、信じない人間も神についての諸々の先入観、固定観念から離れること、言い換えると我々の観念から神を解放することではないでしょうか?
神の解放こそは、人間の解放に他なりません。それには神に親しむことから始めたらいいでしょう。
神は肉親よりも、この自分よりも近いものなのだから...


コメント
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