人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

内なる光と擬似的内なる光

2019-05-09 12:32:11 | 宗教
13年程前の夏、フレンド(クエーカー)の集会で、礼拝後、その系列の普連土(フレンド)学園の女子高生からこんな意味のことを尋ねられたことがあります。
「自分の心に何か確信が与えられたとして、それが周囲の人たちに相容れられなくても、その声に妥協して流されたらダメなんですよね?」
このことは、私がその礼拝で現臨に捉えられた直後だったのでよく覚えているのです。
確か私が魂が揺さぶられて(内容は忘れましたが)、何かを言わされて(感話)、ポカンとして横に座っていたその子の興味を惹いたのか、そういう会話になったのだと思いました。
これについては言うまでもないことです。その確信が自分だけの思い込みのようなものでなく、"愛、平安、リアリティ"にあることだったとしたら...
周囲の、他なる神の声に、愛は、リアリティは感じられるだろうか?
内なる神を他なる神に明け渡してはなりませんi...
他から、外から、人伝に語られる、"擬似的内なる光"の教えに騙されてはなりませんi
次から次にきらびやか言葉が並べられる..."光輝いている"かのように思い描かれる...
しかし、よーく考えてみたら実にオカシイことが分かります。
自分の内に感じられないものを、外から"うだ、うだ"と説き伏せられなければならないことなど...
このことに限らず、如何なる宗団にも、幾重もの集合的思念が立ちはだかります。
どんなに高遠そうな、有り難そうな教えだろうと、そこに愛やリアリティが無ければ何になるでしょうか?
あらゆる宗団に多かれ、少なかれ取り巻く集合的思念...それがその生きたものを覆い隠す...これに飲み込まれてしまうのは、宗団の宿命なのでしょうか?
しかし、自分以外の他から発せられた声が、すべて集合的思念に基づくものとは限りません。
これは稀なことではありますが、私はその得難い機会に恵まれたこともあります。
それは、集合的思念と同じように、自分を含めた複数の人間の中に生まれるものですが、思念を超えた有機的交わりのことです。
しかし、これを集団、集合的云々といった言葉で説明するのは適切ではないでしょう。
共同的と言った方が相応しいと思われます。
集団、集合という言葉のひびきには、何か個的、人格的なものがそこに生きてこず、埋没させられてしまうものを感じさせます。
個的、人格的なものが生きているとは、取りも直さずそこに"愛、平安、リアリティ"が生きており、その自由な発露があることを意味しています。
それらにあることは、闇に包まれたようなこの世に生きる上での導きともなり、自他に光が照らされることともなる...内なる...というのは、思いを越えているということでしょう。
愛、平安、リアリティ...即ち内なる光ともなるものでしょう。

コメント
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