先日、おおよそ6年ぶりに東京のフレンド会(クエーカー)の集会に行ってきました。
そこで行われている「沈黙の礼拝」は、特にやり方というものはなく、我が見えざる導師直伝の形なき祈り、瞑想に通じたものなのです。
6年もの時間の隔たりなど全く感じさせず、すーっと入って行くことが出来ました。
数名の人たちとの合同礼拝は、"つながりにある私"といったものなど、単独のそれでは味わえない面があるのを改めて感じました。
ところで何で又、行ってみたくなったのだろう?...10連休で、ヒマだったのか、よく分からないですが、これは何で離れてしまったか、ということの裏返しでもあるでしょう。
有り体に言えば、私はどこの宗団にも見られる、そこに取り巻いている集合的思念と関わるのがイヤになってしまったのでした。
一口に集合的思念と言っても宗団によって性質は異なるものですが、クエーカーは何しろロートルです。...実際に年配者が多いですが、じっつに保守的で、進取性を欠いています。
それでいて、"クエーカーの火種を消してはならないi"って、なーにを夢みたいなこと言っているかi
...と、いう具合に私はこの集会では、普段の人見知りの性格が豹変してよく吠えるのですi(要するに二重人格)
そして、この日も...「いくら口先で、"内なる光(クエーカーで重んじられている信条的なもの)、内なる光"と言って抽象的に概念として人に伝えようとしたって、自分自身が感じていなければ何にもなりゃあしない(きりっi)」と...私はこういう人間なんです。
6年前と少し違うところは、もっと図々しくも物怖じしなくなったところと、ブログを書いているお蔭からか、表現がちっとは豊かになったところです。
しかし、少し理性的になってみると、一寸おかしかないだろうか?...とも思うんです。
"6年間行方をくらましていて、なんだ、この人はi"ってことにならないでしょうか? 常識を欠いてはいないでしょうか?
「僕は6年前とちっとも変わって無いでしょう?」「安心しました...」(本当か?、怯えてない?、震えてない?...あなたはクエーカーか?)
十数年前、初めて大阪集会を訪れ、しばらく経って、その古い会員さんがこう言っていたのを思い出します。
「あなたはついこないだ、クエーカーに来たばかりなのに、何十年も経験しているようなことを言うのですね...」
しょうがありません。私がどこで何をしてるか分からない、風のようにやってきて、風のように去ってゆく無宿人のようであっても...私は私の内奥から光が輝いたことを知らされている人間なのですから...
なるほど、クエーカーは客観的に見て、年老いた、とっくに終わっている集会と言わねばならないでしょう。
しかし、私は覚えているだけで、三度この集会で現臨の光に捉えられた(光と象徴されるものには外部から差し込んでくるものと、内部から輝くものとがある)ことがあるのです。
集合的思念から離れ、それが取り巻く層を突破し、現臨に意識が向けられるならば、そういうこともあり得るのです。
それから離れること...その宗団の外にあって言うのは簡単なことですが、その中にあって、それから自由であり、突破することは、本当に並大抵のことではありません。
6年前私はこっちから見切りをつけたとも言えますが、結局はそこに横たわる壁に押し返されてしまったと言ってもいいでしょう。
それでも、この集会を訪れる度に感じることは、..."我が主は表に顕れ出ようとしておられる"ということです。
この促しが私を内部から突き動かしているのです。変わらずに...
そして、又改めて感じたことは、ここは、この無宿人の無礼なご託をなんだ、かんだ言って受け入れられる土壌がある、ということです。これはクエーカーの大きな美徳の一つです。(別のキリスト教系の集会では、事実上"出禁"になりました)
この先のことはどうなるか、よく分からないですが、消えんとしていた火種がまだ微かに残っていることは感じられました。
そこで行われている「沈黙の礼拝」は、特にやり方というものはなく、我が見えざる導師直伝の形なき祈り、瞑想に通じたものなのです。
6年もの時間の隔たりなど全く感じさせず、すーっと入って行くことが出来ました。
数名の人たちとの合同礼拝は、"つながりにある私"といったものなど、単独のそれでは味わえない面があるのを改めて感じました。
ところで何で又、行ってみたくなったのだろう?...10連休で、ヒマだったのか、よく分からないですが、これは何で離れてしまったか、ということの裏返しでもあるでしょう。
有り体に言えば、私はどこの宗団にも見られる、そこに取り巻いている集合的思念と関わるのがイヤになってしまったのでした。
一口に集合的思念と言っても宗団によって性質は異なるものですが、クエーカーは何しろロートルです。...実際に年配者が多いですが、じっつに保守的で、進取性を欠いています。
それでいて、"クエーカーの火種を消してはならないi"って、なーにを夢みたいなこと言っているかi
...と、いう具合に私はこの集会では、普段の人見知りの性格が豹変してよく吠えるのですi(要するに二重人格)
そして、この日も...「いくら口先で、"内なる光(クエーカーで重んじられている信条的なもの)、内なる光"と言って抽象的に概念として人に伝えようとしたって、自分自身が感じていなければ何にもなりゃあしない(きりっi)」と...私はこういう人間なんです。
6年前と少し違うところは、もっと図々しくも物怖じしなくなったところと、ブログを書いているお蔭からか、表現がちっとは豊かになったところです。
しかし、少し理性的になってみると、一寸おかしかないだろうか?...とも思うんです。
"6年間行方をくらましていて、なんだ、この人はi"ってことにならないでしょうか? 常識を欠いてはいないでしょうか?
「僕は6年前とちっとも変わって無いでしょう?」「安心しました...」(本当か?、怯えてない?、震えてない?...あなたはクエーカーか?)
十数年前、初めて大阪集会を訪れ、しばらく経って、その古い会員さんがこう言っていたのを思い出します。
「あなたはついこないだ、クエーカーに来たばかりなのに、何十年も経験しているようなことを言うのですね...」
しょうがありません。私がどこで何をしてるか分からない、風のようにやってきて、風のように去ってゆく無宿人のようであっても...私は私の内奥から光が輝いたことを知らされている人間なのですから...
なるほど、クエーカーは客観的に見て、年老いた、とっくに終わっている集会と言わねばならないでしょう。
しかし、私は覚えているだけで、三度この集会で現臨の光に捉えられた(光と象徴されるものには外部から差し込んでくるものと、内部から輝くものとがある)ことがあるのです。
集合的思念から離れ、それが取り巻く層を突破し、現臨に意識が向けられるならば、そういうこともあり得るのです。
それから離れること...その宗団の外にあって言うのは簡単なことですが、その中にあって、それから自由であり、突破することは、本当に並大抵のことではありません。
6年前私はこっちから見切りをつけたとも言えますが、結局はそこに横たわる壁に押し返されてしまったと言ってもいいでしょう。
それでも、この集会を訪れる度に感じることは、..."我が主は表に顕れ出ようとしておられる"ということです。
この促しが私を内部から突き動かしているのです。変わらずに...
そして、又改めて感じたことは、ここは、この無宿人の無礼なご託をなんだ、かんだ言って受け入れられる土壌がある、ということです。これはクエーカーの大きな美徳の一つです。(別のキリスト教系の集会では、事実上"出禁"になりました)
この先のことはどうなるか、よく分からないですが、消えんとしていた火種がまだ微かに残っていることは感じられました。