人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人生の教師と見えざる導師⑥

2019-05-19 12:04:23 | 人生の教師
昭和52年晩秋からほぼ一年間、私は市川にあった白光会に毎月のように通っていたのですが、集会中で聞かれる例えば「五井先生は今世紀最大の聖者ですi」「これ以上の教えに勝るものは無い」といったような、やたらと五井先生、会を持ち上げる言辞が鼻についてしょうがありませんでした。
もし、先生がよく言っていたように、宗教の目的が"本心を開くこと"、"神仏との一体化"ということにあるのなら、そのこととは何の関係も無いことと言わねばなりません。いや、そういうことに囚われていたら、かえって神的なものとつながる道の妨げになってしまうでしょう。
思念から離れねばならないのに、その団体を取り巻く、集合的思念を強めてしまうことになるからです。
どこまでも神的なものに心を開き、その臨在を受け入れることを主眼にしなければなりません。
そのことが思念から離れるということであり、自己と対象であった神仏との乖離が段々無くなって行くことになるのです。
集合的思念に囚われていては、いつまでも二元性、相対性を超えることが出来ません。

...というようなことは、現在の私が書いているのであって、当時の私は、"人間教祖(見える導師)に囚われるからダメなので、霊なる教祖?(見えざる導師)につながらなければならないのだi"、なんてことを漠然と考えていたのです。
そこで、五井先生もメンバーだった「道院紅卍字会」や、兵庫の豊岡にあった「光の道」といった、共に神示を伝えている、教祖を置かない団体に関心を寄せていたのでした。これは、そういう団体をこれから探すということでなしに、私にすでに備えられていたのです。
思い返せば、こうして"見えざる導師"なんてことを、言い表す度に何とも奇しき導きというものを感じざるを得ません。
実際には、相対を超えることを目指したそれらの団体にあっても、思念に囚われ、数多の団体と変わらないような様態もあったりするのですが、私にはとてもシンボリックに当時の私の心象を映し出しているように感じているのです。
そして、それからすぐ(それが意識の深部に浸透し、捉えられてしまうようなことは数年先でしたが)、初めて思いを超えたハタラキを身に覚えるようになったのです。
見えないということは、見ている私がここに居て、こちらから対象的に眺めているようなことではありません。
これが二元性を超えた直接性ということなのですが、どの先生が上とか、どの教えが唯一正しいもヘッタクレも無い、比較対象というものが消えてしまう..."無相、無双"なのです。
それでもこの見える現実に照らして、あなたにとって無上の教えとは何かと問われれば、もう分かりきった話です。
最愛のものからくるものに決まっているでしょi 誰かを介したものでなく、自己と相即したものであり、相対を絶した絶対的なものなのだから。
それはあくまで私にとって、ということなので、あなたにとっては、それは絶対的にあなたの最愛のものであるはずです。
世の中のどっかに唯一絶対の真理なんてものがある訳じゃない...自己のうちに、又自己を超えたもの(これは矛盾した言い方のようで、同じことです)に心を開かれなければ、見つけることが出来ないでしょう。
結局、本心を開くことは、自己信頼から生まれるということではないでしょうか。それを欠く時に集団的思念に覆われるようになります。
"自分を愛し..."なんてことを教えていたのは五井先生が最初でしょう。
最近の私は、諸々の思いを超えて、五井先生が本当に伝えたかったことが、すっと入ってくるのです。
かつて見ていた先生も、何だか見えない感じになってきたようです。


コメント (26)
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