人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自我か真我か

2019-05-23 12:14:20 | スピリチュアル
ノンデュアリティ掲示板がもう大変な盛り上がりようですi
一つ、ここの常連の投稿者は、私よりヒマな人たちだということが分かりました(笑)...最近、暑いですよねえ...
ここでは流行のノンデュアリティの紋切り型のバイアスが掛かっていない分、色んな観点からの発言があります。
ただ、ここ最近は自説の押し付け、それに基づいて他者を論破しようとする"荒らし"に近い傾向も目立つようになりました。
そんな中、ある人の覚醒体験についての投稿が目にとまり、私も投稿してみたくなったけど、やり方がよく分からないのと、"嵐"に巻き込まれるのがイヤなので、ヤメたということがあったのですが、それによると、その人は今まで誰にもその体験について話したことも、理解を得られたことも無かったが、真の非二元的境地に達したとおぼしき人から"お墨付き"のようなコメントをもらって感激していたのです。これは“ワロタi“
といって私はこの人をバカにしている訳じゃないですよi
かく言う私もそういうことがあった直後、自分の体験に確信がもてなくて、誰かにお墨付きをもらおうと思い立ったことがあるのです(笑)
そこで真っ先に白刃の矢が立ったのは、大調和協会の命位様なのでした。
その体験の一週間後、お会いしたのですが、しかし結局は「私はひょっとして悟ったのでしょうか?、それともあれは幻想だったのでしょうか?」と切り出すことは出来なかったのです。
だってねえ..."あんたバッカじゃないのi 覚醒とかなんとか言ってないで、さっさと夢から覚めなさいi"って言われるかもしれないじゃないですか?(ある筋の師家でしたらきっと"それは魔境だi"くらいは言うでしょう?)
そうしたら、あの至高の一瞬と思いたい気持ちは根底からグラつき、その体験は熱病に侵された(実際に高熱に苦しんでいた)結果だった、てことになるでしょうか?
それとも、その"私が覚醒体験した"こと自体は、グラついたとしても、私の自覚意識を超えても尚、そこにどうしても、こうしても揺るがない、疑いようのないものがあるのをどっかで感じているか、どうか...正師なら間違いなくここにつなげようとするでしょう。ここが実に肝心なことなのです!
私はこのブログを書きつつ、こう感ずるようになりました。
"悟った自分に固執するもの、自我が残存している?自分の状態を認めようとしないのは、そも何なのか?
それは又何が真我で、何が自我かを巡り、たどり着きそうにないその決着点に立とうと、他者を巻き込んでまでも駆り立ててやまない。
他者を巻き込むことは、その確信に対しての承認を求めているのではないか?"
これはねえ、自我なんですよ~...って、あーた、分かりきったことはもういいだろi
悪いか? 良いも悪いもありゃあせんi そうなってんだからしょうがないi 真我の承認などどうでもいいから、そっちを自分で認めるのが先決なんじゃないですか?
こう言ったからと言って先の掲示板に投稿した人の覚醒の内容は、自我意識から脱却出来ていないなどと決めつけている訳じゃありません。
いや、"決めつけられる訳ないだろーっi"...決めつけようとすること自体がそも、ナニなんだっつーの...もうキリがないからヤメi
何が真我で、何が自我か...肝心の"真我の神様"はどう仰せられるだろうか?
私にはこういうものしか感じられません。"どーでもええわi"
我々が何を考え、感じ、どんなぶっ飛び体験をしようが、他者を論破しようが、されようが、おバカなことをやっていようと、"私はここに在り続ける"もの、誰の承認も要らず、自体で充足し続けるもの...皮相的自己の根っこにそういうものが感じられる...これは特別な体験などなくとも感じられるはずです。それを感じられるのは、正にその皮相的自己ー自我あっての由縁ではないでしょうかi
勿論それもこれも、その奥に息づいている自己ー真我あってのものであるのは言うまでもありません。
そのものあっての、あんなことこんなことなのに...つい蔑ろになるのも分かっちゃいるんだけど...
"どっかで気付いていればいい..."との仰せです。



コメント
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