人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

超思考

2019-05-02 12:50:41 | 意識、照明
思考...
これまで、宗教、スピ界隈で如何に邪魔物扱い、忌み嫌われ続けてきたことでしょう。
組織化された宗教ではよく、その説かれる教えに対して私心を交えず、ただ信じ、従うように指導されたりします。
これはある意味では、もっともなことで、自分の限られた見識などにとらわれたままでは、広く、深く学ぶことは出来なくなるからです。
しかし、その広く、深く感じられる自分自身の知性、感性というものを否定的に捉えてしまっては何にもならないでしょう。
その行き着く先は自分の人生の主体の放棄につながります。
本来はその自分に与えられた性質を伸ばし、深めるための信仰生活であるべきもののはずです。
多くの組織宗教においては、この部分で個己の在り方が蔑ろにされ、集(宗)団に重きが置かれるようになります。
そこでは私心(個人的な思考)は去勢され、集団的思考が幅を利かせてくる...個人の思念は悪い、邪魔なものとされ、神的なものは集合的思念に投影され、神の如く信じ仰がれるに至ります。
この集団の中では、集団思考、集合的思念について意識されることはほとんどありませんが、どこまでもヴァーチャルな思念の世界なのです。
これが強固なものとなってしまうのなら、どんなにつまらない、低劣な思考、マインドにとらわれていようが、個己の自由が保たれてあることの方がどれだけマシだか分かりません。
自由であることに自己本来の知性、感性に根差した道が開かれるかもしれないのです。
(カルト宗教の温床となる組織宗教に比べれば、頭でっかちのアレ、コレの思念が渦巻くスピの在り方のほうがずっとマシでしょう)
"意識される"と言いましたが、個的なものにしろ、集団的なものにしろ思考にハマっていることに意識され、気付くことが出来るのは何によるのでしょうか?
これがこれまで、注目されることがほとんど無かった(意識されてこなかった)"超思考"ともいうべきものでしょう。
私がしばしば"照明"と呼んでいるものと結び付くものですが、宗教、スピに盲信、妄信などしてしてないでよく考えなければなりません。
しかし、神とか見えないものはいくら考えても分からないものでしょう。
超思考というのは、思われたもののように考えることではありません。ただ意識しているだけで、それ自体が発現してくるものです。
そこでは思考をアレコレ巡らせるのではなく、意識が流れてゆくだけという感じになります。
そして、それにより思考、マインドが超えさせられる...
通常思われている思考の奥に根づいているもので、異なった有り様ではありますが、思考と切り離されてる訳でもありません。
微妙な言い方ですが、純粋意識と表層的思考をつないでいるのです。
思考から離れさせるものも思考のうちにあるとも言えるのです。
このように宗教、スピで思考と呼び慣わされてきたものを、一様に敵視してしまう道理など無いのです。
"考えてはいけない、感じるのです"などと言うが、表層的思考、マインドの奥に根付いた超思考(この場合は原初的思考と言うべきか)は、感性と切り離されていないのです。よーく考え、いや感じてみれば分かるでしょ?
これは取りも直さず愛と切り離されていないということです。
自分を愛し、信じられない人は本当は神を信じられないはずなのです。
この理が分からない人は多分、"思考停止"に陥るしかないでしょう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする