人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えざる教会を求めて

2019-05-10 12:13:30 | スピリチュアル
私はこのブログで、所謂ノンデュアリティとか悟り系スピに通ずるようなことも書いてきました。
しかし、読者の中には、ソコハカと漂う、その全体的なトーンから一寸異質な香りを感じておられる方もおられるかも分かりません。
それは、非二元悟り系の宿敵?、二元論の代表格?、キリスト教的なものに多く触れているというところに表れているのかしらん?
これは、全くありのままの私の精神的歩みから導き出されるものなのですが、これを考えると"大キライなキリスト教、されど惹かれるキリスト教..."と矛盾した気持ちが交錯してきて訳が分からなくなりそうです。
そして、有名無名(無名の方が圧倒的に多い)の宗教的グループと関わり、性懲りもなく出たり、入ったりを繰り返してきた(キリスト教系に限った訳ではない)ことを考えると飽きれる他ありません。
もし、悟り系のように道を自分自身の中に求めて、より深めてゆくだけでしたら(その宗団に伝わる秘儀?を受けるという目的などは別として)ややこしい人間関係や集合的思念を抱えこむことになる、そうした宗団に関わる必要もない訳です。
でも、私には求道の初期の頃から、自分以外の他者たちと道を共にして行こうという、パッションを持ち続けていたのです。
それはしかし、私の意識の変化と共に段々と、見える教会から"見えざる教会"へと変じて行きました。
有り体に言えば、見える教会のうちに見えざる教会を求めていたのです。
ここに私に固有の精神的指向があると認められます。
キリスト教的なものに惹かれたのも多くここに存しています。キリスト教には、古来より教会との関わりが不可欠なのですから...
それは旧教、新教などの見える教会のみならず、我が国の無教会の理念を始め、見えざる教会との関わりについても伝えてきたのです。
そしてもし、教会というものをその原義"エクレシア"(召されたる者たち)に照らせば、人と人の霊なる、愛にある一致を指向する、後者の方がより本質的なものを伝えていると言えるでしょう。
私は主として、小池辰雄先生の終末的ヴィジョンに映じられた"神の幕屋"、ベルジャーエフの終末的キリスト教の母胎ともいうべき"ソボールノスチ"、そして、キリスト教ではないが、知られざる秘教団体、大調和協会の全一的な新しい人類の基盤を伝える"大調和世界観"などの教示に共感を覚えたのでした。
このように、私の魂は、決して自分だけが悟ったり、救われたりするだけでは、充足することが出来ないのです。
そのように私に告げたのは、大調和協会の命位様でしたが、実際このことは、初めて現臨に捉えられて、裏側に踏み入れた時にもハッキリ示されていたことなのです。
即ちそれは、私は私だけで存在しているのではなく、普遍なるものとのつながりにおいて在らしめられていた、ということです。
この私の深部に息づいているものが、見えざる教会を映し出し、その希求に向けさせていたと言ってもいいでしょう。
しかし、この希求は何と苦い幻滅へと変じてしまったことか...
見える教会には、幾重にも集合的思念が取り巻いていており、それに飲み込まれたか、その壁にはねつけられたか...
もう、見える教会のうちに見えざる教会は求むべくもないのか...
しかし...私は垣間見ているのです。思念に厚く覆われた教会の僅かな隙間から見えざる教会が微かに姿を現したのを...それはもはやOO教ともOO会とも呼ばれない、見えざる普遍なるもの、あるいは来るべき普遍調和世界の消息を伝えるものなのでしょうか?
私はその実現については情熱も失せ、第一無力であるのは言うまでもありません。
しかし、我が主のご意志は如何?...それがハタラク時は、私の思いを超えて"成る時には成る"としか言い様がありません。

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